外債という名のアヘン(10)
明治維新政府も日露戦争(一九〇四―〇五年)戦費調達のため四たびロンドン、ニューヨーク、ベルリンで外債を募集している。
外債発行による収入は戦費のほぼ半分を賄ったので、募集に失敗したならば日本は確実にロシアに敗北していた。
皇国の興廃の鍵を握っていた外債募集の大任を果たし、日本を滅亡の淵から救ったのは、日本海でバルチック艦隊を撃破した連合艦隊司令長官東郷平八郎ではなく、時の日銀副総裁高橋是清だった。
「その歓送会の席上で元老井上馨(かおる)は「外債募集が不成功に終わって、もし金ができなかったらわが国はどうなるのか。高橋がそれを仕遂(しと)げてくれなければ、わが国はつぶれる」と語って涙にむせんだため、一同粛然として声もなかったという」(8)。
ロシアの南進を阻止するため欧米の列強は、日本の外債募集に好意的だった。
額面発行総額八千二百万㍀、邦貨換算額八億円に対し、実質受取額は六億九千三百九十万円に達したので(9)、額面発行額の八六%強を受け取っていた。
額面の三分の二しか受け取らず、しかも一部を五%の手数料付き現物決済で受け取り、さらに損害賠償まで請求されたエジプトの外債募集は、西洋資本のいい金づるだったのだ。
(8) 「日本の歴史26日清・日露」、二七〇ページ
(9) 同、二七二ページ