トルコのくびき(4)

 工作を始めてから三年後の一八六六年、長男相続制を認める勅許状が公布された。このためにイスマイルは貢税を年間五十九万八千㍀から六十九万㍀に増額し、トルコの高官に多額のわいろをばらまいた。

 この勅許状は、一万二千人をトルコ軍に提供することを条件に、軍隊を一万八千人から三万人に増員することも認めた。

 同様の買収、外交工作によって六七年、イスマイルはトルコからヘーディヴ(副王)と名乗ることも許された。

 さらにイスマイルは外国との条約締結でも大幅な自由裁量を獲得した。六九年の初めまで、イスマイルの買収、外交工作は着々と成果をあげた。

 その時、トルコの要人でただ一人、一切のわいろ受領を拒否した硬骨漢、アリ・パシャが大宰相兼外相に就任した。アリ・パシャは六六、六七年の勅許状破棄を狙っただけではない。

 イスマイルを追放し、六六年の勅許状まで推定相続人だったイスマイルの弟、ムスタファ・ファズルを副王に就けようとした。

 ファズルはエジプトに荘園を所有していたが、イスタンブールで生活し、トルコ政府の要職に就いていた。アリ・パシャはファズルを利用して、エジプトを従属させようとしたのだ。

 誰でも金で動かせると信じていたイスマイルは、大ピンチに陥った。イスマイルはこのとき、列強の外交支援を最も必要としていた。その折も折、六九年十一月のスエズ運河開通式典が絶好の外交工作の機会となった。

 式典は派手であればあるほど、効果を発揮した。イスマイルが肉鍋にふたをしない限り、また債務の返済を続ける限り、列強にとって英明の君主は必要だった。

 祖父がトルコをピンチに追いつめたときは、列強の圧力に頼ってトルコがエジプトを出し抜いた。今度はイスマイルがトルコを出し抜いた。アリ・パシャの介入で自立は制限されたが、イスマイルは生き延びた。

スエズ運河開通式(1869年)。

アラジン3世のバイトルヒクマ(知恵の館)-運河開通式(2)