神話の脅威、現実の脅威(2)

 エスポズィートは、原理主義という言葉を使わない。

 この言葉は、「キリスト教における前提と、西洋によるステレオタイプというあまりに大きな重荷を背負わされているように思える。同時に、そこには、実在しない一枚岩的な脅威が含意されている。

 より適切な一般的用語は、イスラーム復興主義あるいはイスラーム行動主義であり、こちらの方が価値判断を含む度合いが低く、イスラームの伝統に根ざしている。

 イスラームは復興(タジュディード)と改革(イスラーフ)の長い伝統をもっているが、イスラームの初期の時代から今日に至るまで、その概念には政治的、社会的行動主義が含まれてきた。

 したがって、私はイスラーム原理主義ではなく、イスラーム復興主義あるいはイスラーム行動主義について語りたいと思う」(3)

 この定義によっては、イスラム原理主義の脅威は、神話に還元されてしまう。
 エスポズィートの言うように、イスラムは多様であり、復興や改革の運動もさまざまだ。

 ムッタジラ派の啓蒙主義運動、イブン・ハンバル、イブン・タイミーヤやイブン・アブドゥル・ワハブの宗教復興運動、近代化と世俗化政教分離を目標とした近代主義者の運動、サイイッド・クトブのように近代化に幻滅した近代主義者による原理主義運動などは、それぞれに異なる。

 ワハブ派の復興運動は電信電話、ラジオ・テレビを拒絶する伝統主義だが、暴力による現政権の転覆を正当化する反体制ではない。

 手段を選ばない、現政権の転覆を正当化し、自らが敵視する相手にも暴力を否定せず、その戦線に境界を認めないクトブ派は、イスラムの伝統にはない革新(ビドゥア)であって、宗教の復興運動ではない。

 原理主義グループが一枚岩でないことは、脅威ではないことを意味しない。「弱い国家、強い社会」というイスラム諸国共通の構図の下では、クトブ派のイデオロギーは民衆の選択肢であり、既成の秩序を破壊する威力を持ち、脅威は現実となっている。

 それでもエスポズィートは、価値判断を含む度合いが低い方がよいと言う。そして、多様な運動のそれぞれの違いを客観的に評価、価値判断することなく、中立的で害のない復興主義、行動主義に一括する。

 イスラムと、イスラムの伝統ではないクトブ派の原理主義に区別が無くなってしまう。

 (3) 同、二七ページ