ここの宗教は、ホメロスの叙事詩のような趣向をもっています。「ナビー」、預言者は、アキレスのような英雄で、アキレスのようにアテナイではなく、神、アッラーに動かされるのです。

 預言者は戦い、礼拝し、説教し、恋をし、そして男の中の男であり、抽象概念ではありません。不思議な出来事についても、それらは目を閉じてじっと我慢するものではなく、彼らはそれらを信じ、それらに喜びを見出し、人びとを喜ばすために語るのです。

 「不可能を信じることも信仰である」といった、嫌悪すべき懐疑主義は、ここでは全く好まれません。「神に不可能なことがあろうか」、これですべておしまいです。要するに、コーランは聖書に比べて散文的で、常識的なのですが、ムハンマドが宗教に情熱の特質を残したか、そうでなければ、それがここの人びとの血の中に流れているのでしょう。

 私は、彼らの言葉を多少理解するようになるまで、アラブは極端に退屈な人たちであると考えていましたが、今ではアラブのシェイクのなかにドンキホーテの系譜を直接たどることができます。

 先日、かわいい赤ん坊を連れた美人のお母さんが、私を訪ねて来ました。私は赤ん坊と一緒に遊び、その帽子代わりにコットンのハンカチを贈りました。彼女は昨日、またミルクとサラダを持って訪ねて来て、ナツメヤシの実の種で私の運勢を占いました。私がそれを笑ったので彼女は、ウマルの家族の運勢を占うことで満足し、ウマルはそれを信じて疑いません。

 彼女は明らかに聡明な女性で、ここでは有名な女予言者です。当然、彼女は自分の予言に確信をもっています。迷信、とりわけ邪悪な眼の迷信は、ここでは驚くほど広がっており、多数のヨーロッパ人、少なくはないイギリス人でさえ、それを信じています。

 実際のところアラブは、とても感受性が強く、どのような悪意をも刺激することに非常に臆病なので、誰かが彼らを疑いの眼で見るだけで、彼らを不快にしてしまうのに十分なのです。そして、ここでは災難が決して珍しくはないがために、何らかの事故がすぐに誰かの眼のせいにされてしますのです。

 持物を自慢するのは、礼儀の一部とされるので、誰でも隣人の良い持物をうらやましがっていると疑われないように気を使わねばなりません。私の家に水を運んでくる水売りは昨日、ベランダの床に水をまいているとき、私のブレスレットをほめたとたんに、彼が妻や娘たちに買い与えた金のネックレス、イヤリングについて話し始めました。

 それは、私が彼の妬ましい目を恐れて、不安にならないようにとの配慮からです。彼はそのような善人なのです。彼は月にわずか2シリングで、毎日、8杯から10杯の巨大な水袋をナイルから運んで来るというのに、決して物乞いをしたり不平を言わず、いつも陽気に礼儀正しく振る舞います。彼へのバクシーシを増やしましょう。
エジプトの水売り。この画像は、http://timea.rice.edu/index.html  のコレクションに所属している。

アラジン3世のバイトルヒクマ(知恵の館)-水売り