画像で辿る原理主義の源流(22)

 王制の打倒という共通の目標を達成するまで、イフワーン・ムスリムーンと自由将校団は提携した。しかし共通の目標が消滅すると、二つの異質なイデオロギー集団は衝突した。

 それは1954年10月26日、アレクサンドリアで起きた。集会で演説していたナセル大統領に向けて、同胞団員マハムード・アブドゥルラティフが六発の銃弾を発射した。銃弾はいずれも的からそれ、ナセルはひるまずに演説を続け、銃声とナセルの声はラジオで全国に実況放送された。

 治安軍は同胞団本部、支部を襲撃、数千人のメンバーを逮捕、投獄した。この事件でアブドゥルラティフを含む六人が死刑判決を受け、サイイド・クトゥブは15年の懲役刑を受けた。サイイドは66年8月、刑死するまでその後の生涯のほとんどを獄中で過ごし、多数のイデオロギー書を執筆した。

 独裁国家が政治犯に加える拷問は、仮借のないものである。受刑者に強制された肉体労働は削岩、砕石作業だった。重労働の苦痛に耐えかねた受刑者は57年夏、作業をボイコットして収容所に立てこもった。これに治安部隊が突入し、21人を殺害、多数の重軽傷者を出した。

 拷問で健康状態が悪化し、苦闘しながら密かに執筆を続けていたサイイドの思想もまた、仮借なく先鋭化した。


写真上、死刑判決を受けるアブドゥルラティフ(左端で直立している人物)。

写真下、政府に動員され、同胞団本部を焼き打ちする群衆。
アラジン3世のバイトル・ヒクマ(知恵の館)-アブドゥルラティフ
















アラジン3世のバイトル・ヒクマ(知恵の館)-同胞団焼き討ち