画像で辿る原理主義の源流(8)

 スーダンは副王イスマイールの祖父ムハンマド・アリが征服(1819年)して以来、エジプトの一部となった。重税、兵士と強制労働の徴用でエジプトの支配が苛斂誅求を極めたため、民衆の反エジプト感情が急激に悪化した。1870年代、祖国の解放を叫んで立ち上がったのが、イスラーム原理主義者・ムハンマド・アハマッド(1844-85年、写真上)である。

 彼はスーフィー(イスラーム神秘主義)教団の指導者、カリスマ説教師としてすでに名を馳せていた。自らマハディー(出現を預言されている救世主)と名乗り、民衆に信仰の浄化、預言者ムハンマドと最初期のムスリムの時代の、純粋な信仰に復帰することを、イデオロギーの指導理念として、反乱軍を組織した。

 イギリスがエジプトを占領したころ、マハディーの反乱軍は首都ハルトゥームを脅かすほどの勢力を持つに至った。危機感を強めたイギリスは、退役していたウィリアム・ヒックス大佐を司令官とする軍隊をスーダンに派遣した。イギリス・エジプト連合軍は、アルウバイドの戦いで(1883年、写真下)、装備ではるかに劣るマハディー軍に大敗を喫し、ヒックス大佐は戦死した。


アラジン3世のバイトル・ヒクマ(知恵の館)-マハディー

アラジン3世のバイトル・ヒクマ(知恵の館)-スーダン地図

アラジン3世のバイトル・ヒクマ(知恵の館)-アルウバイドの戦い