第九の原則は、正当な所有である。すでに解説したように、私有はそれなりに基本的な権利であるが、個人の絶対的な権利ではない。イスラームの下では、それが合法的に獲得されない限り、私有は正当化されない。詐欺、略奪、横領、策略、贈収賄、高利貸し、独占そのほかによる取得は違法である。

 イスラーム国家は、取得の手段を確認し、その正当性を判断する義務が課されている。財産が合法的に取得されれば、その私有権は正当化される。所有が非合法と証明されれば、イスラームはその所有を承認せず、制限を加える権限を有する。

 私有権を承認することによってイスラームは、所有しようとする人間の本能に応える。この本能は、働いて、自分と社会の発展のためにエネルギーを投入するように人間を刺激する。そして個人は、自分の生計を立てて自由意思を行使し、国家の怠慢な奴隷ではなく、社会の独立した貢献者となる。

 神の法を防衛し、正義を保全して悪を禁じることが個人の義務であることから、そのような自由は死活的に重要である。各人は、生活に介入してくる当局者を恐れることなく権利を行使する。言うまでもなく個人は、政府が公共の福祉のために最終的な責任を負っているため、他人を妨害したり傷つけたりすることなく、権利と自由を行使しなければならない。

 民主主義と社会主義が持つさまざまな欠陥を伴わない、民主主義と社会主義の原則の利点だけを個人が享受するように、イスラームは私有財産を規制する。事実、私有を規定するイスラーム法は穏健で、人間の本性と調和して、個人と社会を階級摩擦から保護する。

 第十の原則は喜捨、ザカートである。イスラームに批判的な人は、これが経済制度に関連するイスラームの唯一の原則であると主張する。この理由により私は、喜捨の議論を最後に残しておいた。

 ザカートは、総資産あるいは実質資本に対する年間2.5%の課徴金である。これは富者から徴収する慈善ではない。政府はこの課徴金を課し、徴収し、その支出をコーランの規定に従って決定する。ザカートを、富者が貧者に与え、貧者がそれを感謝すべき寄付金と解説するのは間違いである。

 政府が税金を課し、その収入を学校、教師の給料、教科書、給食など教育目的に配分するとしよう。学生も教師もこの政府が支給する便益を、特定の経済階級に感謝を表明すべき慈善とは考えないであろう。政府が課税額に関係なく一律2.5%の税金を課す法律を制定し、税収を軍隊に配分するとしよう。我われは軍隊が富者からの慈善をうけていると言うだろうか。

 非イスラームの国家でムスリムが貧者に喜捨しているが、これはイスラームの制度ではない。その国がイスラーム法を施行しておらず、イスラームが義務付けるように、社会の福祉のために支出するザカートを徴収していないので、彼らはそのように余儀なくされているのである。ザカートを普遍の課徴金と考えないのは、無知か悪意かのいずれかである。