協調と連帯

 個人と個人の行動について検討した後、イスラームは、共通の福祉のために個人と社会の双方に課せられた義務を通して、個人と社会を連結させる。イスラームは、そのシステムに従えば、社会がその目標を達成するためには、誰もが協力すべきであるために、社会の制限の範囲内で個人の自由を定義する。神の使徒は次のように語られている。

 「人は皆、責任を負わされており、その責任を果たさなければならない。男は家族を支える責任を負わされており、その責任を果たさなければならない。女は家庭の世話をする責任を負わされており、その責任を果たさなければならない。召使いは主人の財産を管理する責任を負わされており、その責任を果たさなければならない。息子は父の財産を管理する責任を負わされており、その責任を果たさなければならない」。

 使徒はまた語られた。「神の命令に従う者たちと従わない者たちをたとえてみれば、彼らは一隻の船に同乗している集団のようである。彼らは甲板と船底に分かれて乗っている。船底に乗っている者は、水を必要とするたびに、甲板に乗っている者たちを越えていかねばならない。そこで彼らは言った、『船底に穴を開けたらどうだろうか。そうすれば我らは、甲板にいる人たちの邪魔をせずに水を得ることができる』。彼らがその計画を実行すれば、全員が滅亡しただろう。思いとどまれば、全員が安全である」。

 弱者を支援し保護することは、ムスリム社会の義務である。神は言われる。

 「孤児を苦しめてはならない。物乞いを払いのけてはならない」(93章9-10節)。

 「信仰を否定する者が誰であるか知っているか。孤児をはねつけ、貧者に糧を与えることを奨励しない者たちである」(107章1-3節)。

 「婚期に達するまで孤児を試してやれ。もし汝が孤児の判断が健全であると考えるならば、財産を彼らに渡してやれ。だが、彼らの財産を浪費したり、成長する前に急いで費やしてはならない。保護者が裕福であれば報酬を求めるな。もし貧しければ、公正で適正な分だけ取らせよ」(4章6節)。

 使徒は、「二人分の食事を持っているならば、三人目を招待せよ。もし四人分の食事を持っているのであれば、五人目あるいは六人目を招待せよ」、と言われた。また、「余分な乗り物用の動物を持っているならば、持っていない者に提供せよ。余分な食事を持っているならば、持っていない者に与えよ」、と言われた。

 高利貸しは、社会の構成員の間に恨みを呼び起こすので、禁止されている。貧者が必要に迫られ、金持ちから借りるとき、金持ちが有利な立場に乗じて利息を取り立てることほど、貧者にとって敵対的なことはない。神はいわれる。

 「利息をむさぼる者は、サタンに触れて発狂した者のような立ち上がり方しかしない」(2章275節)。

 「おお、汝ら信仰する人びとよ、真の信者であるならば、神を畏れ、そして残っている利息を放棄せよ。放棄しないのならば、神と神の使徒との戦いを覚悟せよ」(2章278-279節)。

 社会のすべてのメンバーは、互いに同情し、協力し、連帯しなければならないため、貧者は利息なしで借り入れるべきである。コーランは、「もし債務者が困窮しているのであれば、返済できるまで猶予してやれ」(2章280節)、と言っている。債権者は貧者と取引するとき、嫌がらせやとり立てではなく、寛容と親切を示さなければならない。

 高利貸しと独占資本家は呪われる。彼らは消費者から不当な利益をむさぼっている投機家であり、敵意と分裂を扇動する。使徒は、「独占する者は罪人である」、と語られた。イスラームは、計量の不正による暴利を禁止する。神は言われる。

 「はかりをごまかす者に災いあれ。彼らははかりで受け取るときは、めいっぱい受け取り、はかりで渡すときは、適正なはかりより減らして渡す」(83章1-3節)。

 使徒も、「ごまかす者は、我らの同胞ではない」、と語られた。神は、人の取り分を奪うことを禁じられて、「人の取り分を取り上げてはならない。危害を与える目的で罪を犯してはならない」(11章85節)、と言われる。

 ムスリムは、神の戒律に厳格に従うように命じられている。神は言われる。

 「皆、神の綱を握れ、ばらばらになってはいけない、そして汝らが敵同士であったとき、汝らの心を和解させ、互いに兄弟とさせた神が、汝らに賜った恩寵を忘れてはならない。そして汝らが地獄の深淵の瀬戸際に立たされたとき、主が汝らをお救いになったことを」(3章103節)。

 「汝らは正しいこと、敬虔なことで互いに助け合え。だが、罪悪と違反では助け合ってはならない」(5章2節)。

 神に従う共通の願望は、ムスリムを引き付け団結させる、磁石の力である。神への服従は、イスラームの平和の概念に不可欠である。