預言者は、彼に祝福と平安あれ※、姦通者を石打ちによる死刑に処した。預言者の後継者、正統カリフたちも同じ刑罰を適用した。

 誤って導かれた人びとは、この刑罰を残虐と考える。自由放任社会で入手できるみだらな快楽の恩恵を受けている人たち、あるいは受けようと期待している人たちは、そのように考えるであろう。西洋社会で性犯罪があまりに一般的になっているので、その流行や許容が、その犯罪に対するイスラームの刑罰を不相応に見せかけているのである。

 しかし人間の立法者は、姦通とその結果、違反とその結果は、文明の弱点であることを、想起すべきである。崩壊した家族の基盤の上に、安定社会が築かれたことはかつてない。

 イスラームは、姦通が疑いの余地なく証明された場合に限り、石打ちによる死刑を宣告する。姦通者が結婚していれば、彼らはいかなることがあっても、姦淫を正当化できないからである。姦淫した男女が結婚していなければ、石打ちの死刑罰ではなく、鞭打ちの刑罰が適用されるだけである。

 預言者は、「疑わしい場合は、限定罰を科してはならない」※、と言われた。明白な犯罪とは対照的に、疑わしい犯罪は、減刑に値する。姦通罪は、4人の証人が実際にその行為を見たと証言しない限り、適用されない。4人の証人がいなければ、犯罪は成立しない。

 イスラームが他人を秘密裏に監視することと、家屋侵入を禁止していることを考えれば、イスラームで要求される姦通の証明は、犯罪が公衆の面前でこれ見よがしに犯されない限り、ほとんど不可能となる。公衆の中でのそのような行為は、あからさまにわいせつ行為を宣伝し、公共の道徳を卑しめていることを意味する。健全な判断力を備えた人なら誰でも、そのような犯罪に対するイスラームの刑罰は、違反者が当然の報いとして受けるにふさわしいものと考えるであろう。

 イスラームは、男女を姦通罪で訴えながら、その犯罪を証明する4人の証人をそろえることができない人に鞭打ちの刑罰を定めて、違法な告発を抑止する。

 「貞淑な婦人を中傷しながら、4人の証人をそろえることができない者は、八十回、鞭打て。そしてそれ以後、彼らの証言を受け入れるな。そのような者は、邪悪な逸脱者であるからだ。ただし、悔い改め、行いを改める者は別である。神は寛容で、慈悲深いからである。」(24章4-5節)。

 この刑罰は、家庭不和の原因となる無責任な非難を抑止し、また中傷や名誉毀損につながる邪悪なうわさの流布を防止する。

 「神は、不正な扱いを受けた者を除いて、公然と人を非難、中傷することを好まれない。神はよく聴き、すべてをご存知であられる」(4章148節)。

 一方の配偶者が、4人の証人をそろえることなく、配偶者を姦通で非難する場合、彼は神の名前に誓って真実を述べていると四回宣誓しなければならず、そして五回目の宣誓で、もし彼が嘘を言っているのであれば、自分に神の怒りが降りかかるように、と祈願しなければならない。神は言われる。

 「もし男が、自分以外に証人をあげることができずに、妻を非難する場合、彼は神にかけて彼の非難は真実であると四回宣誓し、もし彼が嘘をいっているのであれば、自分に神の怒りが降りかかりますように、と祈願しなければならない。しかし、妻が神にかけて彼の非難は嘘であると四回宣誓し、もし彼の非難が真実であれば、神の怒りが自分に降りかかりますようにと祈願すれば、妻は処罰されない」(24章6-9節)。


※「神と神の天使たちは預言者を祝福される。おお、汝ら信仰する者たちよ、預言者を祝福し、彼の平安を祈願せよ」(33章56節)という啓示に基づき、ムスリムは預言者に言及するとき、必ずこの祈りの言葉―サッラッラーホ・アライヒ・ワ・サッラム―を述べる。

※姦通に対する石打ち、窃盗に対する手足切断、飲酒に対する鞭打ちなど、特定の犯罪に適用する特定の刑罰を、イスラーム法で限定罰といい、刑罰の変更、軽減、裁量は許されない。