イスラームは、社会的、法律的、そして国際的な、最も幅広い意味での正義を確立し、それを全人類に適用するために降臨した。ムスリムであろうと、ムスリムでなかろうと、この正義に違反する者は、敵対者、犯罪人である。

 したがって、絶対かつ完全な神の言葉が支配するために闘い、必要であれば武力を行使することは、ムスリムの義務である。

 「信仰者の二つの党派が争いを始めたならば、汝らが仲裁してやれ。しかし、彼らのどちらか一方が限度を超えて逸脱したならば、汝らは逸脱者が神の命令に従うまで戦え。だが、神の命令に従うならば、彼らを公正、公平に仲裁してやれ。神は公正な人を愛される」(49章9節)。

 イスラームは、不正と圧制を断固、拒絶する。イスラームは、そのような悪を社会から追放するようにムスリムを促すだけでなく、圧制に抵抗できない弱者を助けるようムスリムを強制する。これは、コーランが明確に語っている。

 「神の大義のために、汝らに敵対する者たちと戦え。しかし、限度を逸脱してはならない。神は逸脱者を愛されない」(2章190節)。

 「なぜ神の大義のために戦わないのか。弱い者、虐げられている男たち、女たち、子供たちのために戦わないのか。彼らは、『我らが主よ、我らをこの圧制者の町からお救い下さい。我らのために主の御許から守護者をお遣わし下さい、我らのために主の御許から救済者をお遣わし下さい』、と叫んでいるではないか」(4章75節)。

 イスラームの信仰によれば、これらの崇高な目的のために戦いが許されている。言うまでもなく、このような戦争は、高貴な目的のための手段である。ゆえに、この戦いのために死ぬ者は、楽園が授けられる殉教者である。

 「神は、楽園と引き換えに、信仰者たちの身体と財産を買われた。彼らは神の大義のために戦い、殺し、殺される。これはトラー(律法)、福音書、そしてコーランにしるされている、神の確かな約束である」(9章111節)。

 「神の大義のために殺された者を、死んだと考えてはならない。いや、彼らは主の御許で扶養されて、生きている。彼らは神の恩恵により、授かったものに満悦し、彼らの後に続く人たちのために喜んでいる。(彼らの後に続く)人びとは、恐れもなく、憂いもないと。神の恵みと恩寵を喜び、また神が信仰者への報奨を、決して反故にされないことを喜んでいる」(3章169-171節)。