母とはあまり頻繁に連絡を取り合わない。





 私たちが特に悪い関係にあるわけではない。ただ、二十数年の時間を一緒に過ごしてきた中で、母も私もそれが最も安全な家族の形だと本能的に気づいたから、そのように生きているだけだ。正解ではないはずだろうが、人生には唯一の正解などあるわけないので何とかうまくやっている。ドラマや映画に出てくるような幸福でも不幸でもない、どちらかに極端に偏った家庭ではない。ただ一人でいる方が一緒にいるよりも少し慣れているかもしれない。離れてれば離れているほど、その距離の分、互いを愛することができる関係もある。十代の頃はこの事実がとても孤独で不満だったが、振り返ると、そのおかげで孤独や寂しさに振り回されず成長できた。その気質のおかげで大小の失敗を避けて生きることができたので、それだけが少し苦くてまたそれに感謝している。



 私が二十代後半になる間、母は変わらなかった。母はいつも少し憂鬱で閉鎖的で、アニメーションが好きで、一日中映画を見ている。週末には時々ピアノを弾く。私はただ、そのメロディが日が暮れるにつれて次第に鈍くなるのを壁一枚向こうから感じながら週末を過ごした。そうして私も母も年を取った。ある時期には母が私をとても憎んでいるように感じたこともあり、またある時には私の存在が母の大きな後悔のようだと思ったこともある。そしてまたある日には母が私を愛しているかどうか疑い、私は母の何なのかについて考えながら恐れた。しかし、再び考えると、母は変わっていなかった。母を取り巻く多くのものが変わっただけだった。家族や社会、そして一人娘が変化し続けていた。その中で変わらずにいたことは少しいかついことかもしれないが、ある意味では一人の人として成し遂げられることの中で最も尊いことでもある。母は強かった。しかし、母も人間であり、また混乱していたことを今は知っている。そして、母が私を愛していることも今はよくわかる。時々その理由が気になる。家族の愛とは何か、一生その中で生きてきたのに、私はまだ何もわかっていない。



 母は音楽教師で、長い間ピアノを弾いていた。教師資格のおかげで、韓国人の海外ビザ取得が困難だった時代から簡単にビザを手に入れ、海外を放浪して過ごしていたらしい。私は遅ればせながら、母のそういうところに私が似ていることを知った。私に連絡する人が電話の代わりにメッセージでまず私が韓国にいるかを先に聞く時期があった。私は機会があればどこへでも旅に出た。機会がなければ機会を作って国境を蹴ってどこかへ行った。ヨーロッパ、アジア、アメリカ、どこでもよかった。知らない場所を一人で探検するのが好きだった。異邦人の特権を享受するのが好きだった。それが全て、若かった母の痕跡から始まったことを知った。どこへでも行く、何でもやる。私の人生はすべてそうした欲望で成り立っている。母と私の違いは、私がいたから母はそれができなくなっただけだ。今でもそれが私にとって身震いするほどの罪悪感を感じさせるが、事実、母はもうあまり気にしていないようだ。



 日本で出会った貴重な友達のイェチャンが母と話す様子をしばしば見てきた。それは友人の幸せな声を聞く機会の一つだったので、イェチャンが母と話している間、私は彼の母親に挨拶をしたり、その会話を盗み聞きして勝手に幸せの片鱗を握ってた。同時に薄い義務感を感じた。ほかの友人は、よく両親とビデオ通話をしているようだった。皆が家族との絆をしっかりと保つことに心を傾けていた。わがままに出かけてわがままに幸せになっているバカな娘と、週末に一人で電子ピアノの電源を入れている母の間にもそれがあるのか、時々不安になった。だから私は母に、うちらの関係に必要な分以上の頻度で電話をし始めた。



 母との通話は長く続かない。うちらは便りがないのこそ良い便りと考えて過ごしてきた年月があまりにも長かったので、私があまりにも頻繁に、また長く電話をすると、母は心配し始める。そのため私は母に頻繁に電話をする代わりに、二、三週間に一度ぐらい母のクレジットカードでコンビニでおかしを買った。500円以上のものを購入すると、母がヤニカスの娘を無駄に心配するかもしれないから、タバコの値段を超えない価格の商品だけ買った。それが私が母に送る電報のようなものだった。コンビニでお菓子なんか買うぐらいのの余裕があるほど、吞気に過ごしているという電報として機能してた。そのため、結局電話は習慣にならなかった。家族にはそれぞれ異なる形があることを、かなり最近になってようやく理解した。すべての家庭がそれぞれの理由で不幸を経験るから、それぞれの安定した形を見つけたとき、それがすべて同じになるわけがないのだ。母はそれを私よりずっと前に気付いていたのも。こんな年になってようやく悟った。そして私がどんな理由で母に電話をしているのかも、母は何となく分かってくれた。



 母と電話していたときのことだった。私は卒業後、韓国に戻ることを真剣に考えていたので、母にもさりげなく意見を求めた。いくつかの理由があった。書くに値する話ではないが、私にとってはそれなりに重要なものだったので。母は言った。戻ってきてもいいし、やっていることを、負担になるすべてをやめてもいいと。これは私が母に愛していると言われることよりも頻繫に耳にしていた言葉だった。母は私がとても小さかった頃からいつも、やめてもいいと言っていた。実は、その言葉が大嫌いだった。それは、やめてもいい、と言ってるのは、私が今していることを苦しんでいて、逃げ出したいと思っていることを前提にして出てきた言葉のようで、そのためで嫌がってた。だからいつも尖ってて、皮肉な答えをだして、雑なプライドを守ろうとしてきた。母はそんな私を理解できないことがよくあった。その度に段々、遠くなった。お母さんと私の距離も、家庭の平和も、日常も。



だから今回はうっかりと聞いた。ねえ、母ちゃんは私が逃げちゃってもいいの?と。



 母は言った。やめることは逃げることではないと。ただ新しいことを始めるためのステップだから、他のことを何でも何回でもやってみて、始めればいいと。そしてもし逃げることになっても、それが何で悪いの?と言った。それでようやく、十年以上経って、私は母が何を言っているのかわかってしまった。母は私に逃げなさいと言ったのではない。気に入らないことは投げ捨ててもいい。新しいことはこの世にはたくさんある。それを見て、経験して、楽しめばいい。そしてもし逃げるとしても、それがどうして悪いことになるのか。逃げる旅もまた旅なのだ。母はそれを私にずっと言っていた。出かけて、新しいものを見て、感じて、ずっと探検してもいいと。





 母は私よりもずっと広い世界をずっと前から見てきたから、私にそう言ってたのだ。怖がっていた私が勝手にトゲを立ててきたことを気づき、とても恥ずかしくなった。電話を切った後、私と母を振り返った。私は過去の人生で数え切れないほど多くのことから逃げてきて、時々自分が情けなくてたまらなかった。しかし母はそれをすべて娘の新しい旅と見ていた。それは心が痛むほどの恥だ。母は知っていたが、私は知らなかった。私が気づかなかった。気づいてくれなかった。私のすべての逃げが母にとっては旅だったということを。だから大丈夫だったということも。



 最近、久しぶりにヘミングウェイの『老人と海』を読み返した。老人は言った、人間は敗れるために造られていない。壊れることはあっても、敗れはしない。私はその言葉に非常に感銘を受けたが、実際にはその意味を理解していなかった。母は解っていた。広大な海で時を待つ老人のように、誰もいないリビングで年老いた犬を撫でながら、その事実をよく噛みしめていたのだ。どんなことがあっても、それが彼女を、そして彼女の若い娘を、敗れさせないということを。