反戦映画『西部戦線異状なし』を見ながら「戦争の心配」を書いている傍らで、世界ではフランスが限定的な兵役の導入を復活させようとする動きを見せ、ドイツでは来月にも徴兵制復活のための法案が施行する見込みだという情報が流れてきました。
日本では、高市政権の官邸筋ーしかも安全保障担当政策だというーが「核を持つべきだ」などと信じがたい発言をし、その発言を維新は擁護。
国民民主の玉木氏も「オフレコの話」に言及するといった始末に呆れてものが言えません。
※非核三原則を守るよう求める署名のご協力をお願いします。
力が人をそうさせるのか、あるいは、人は戦争ないし資本を奪い合うことを放棄できない存在なのか…と内省の視点を持ちつつ、うんざりしてしまいます。
「戦争の心配」で私はこう書きました。
映画には終わりがある。あるいは、死ねば終わると言うこともできてしまうのかもしれない。しかし、戦争で受けた傷や戦争でもたらされた分断、生み出された負債は終わらないし、戦争で殺した人、犠牲になった人は還ってこない。
戦後80年の年に国内だけでもこれほど不穏な動きが生まれてしまうことを思うと、戦争の影響はいかに「終わらないか」と思わされる私がいます。
一方で、日本では最近になってようやく「戦争で受けた傷」が語られるといった動きが見られ、注目を浴びてきているように感じます。
先日開催された講演会『戦争という「暴力」-逃れられないトラウマー』では、「戦争とトラウマ」について研究している中村江里氏と、公認心理師・臨床心理士の信田さよ子氏らが登壇していました。
中村氏は、戦争によるトラウマがずっと不可視化されてきた日本社会の構造と、復員兵の家族によって語られはじめたことー「PTSD の日本兵家族会・寄り添う市民の会」が結成されることにーそこで聞かれる語りについて発表されていました。
信田氏は、主に自身の臨床経験からトラウマやDV・虐待について語り、そこに戦争の影響によると思われるものがあるとした自説を述べられていました。
最後の対談も含めて、ものすごい内容だと私には感じられたので、ぜひ動画を見てほしいと思いますが(私も繰り返し見ようと思っています)、この動画を見るとートラウマなどを理解するとー深い傷を負った復員兵たちが適切なサポートなど全くと言っていいほど受けられないままに放置・抑圧され続け、それが家族への暴力へとつながっていく(移譲される)実態がよくわかり、同時に、戦時下の体制が今もなお維持され続けていることが理解できるように思います。
「戦争で受けた傷」は終わるどころか生まれ続けていて、かつ、生まれ続けることを容認する仕組みのまま、日本は戦後80年を過ごしてきたと言える。
そうした社会に私達は生きているのだと思うと、私は心の底から恐ろしくなります。
私はこれまで震災で被災した人たちや「死にたい」気持ちを持つ人たちと関わる機会を少ないながらも得てきて、トラウマの後遺症がいかに人を苦しめるかを感じてきました。
ひとりの人間の力を超える力によってもたらされる苦しみを、ひとりの人間の努力によって乗り越えさせようとする社会の"ふつう”に強い疑問と怒りを覚えてもいます。
今日本社会は強い言葉(力)を用いて、異なる他者や他国と共に生きるのではなく排除・支配する方向に進んでいると感じます。
このことを私は力と傷の問題として捉える必要があるのではないかと(今のところ)考え、何ができるのだろうかと日々無力感に苛まれています。
そのうえで、少なくとも言えることは、「力には力」で対抗し支配を欲する世界で人が安心して生きていけるわけはないということと、今、人類が持とうとしている強い力は、誰かを、まちを、自然を破壊する規模のものでありさらなる傷が生まれるだけであって、その先に安心はないということだと思っています。
それを容認するシステムの上を私達は生きている。本当に恐ろしいことだと思います。
こんなに「戦争の心配」をしなければならない世界で生きるとは思いませんでした。
これを次世代に引き継ぎたくない。
大げさだと、重い話など聞きたくないと見向きもされないことばかり書いているかもしれないけれど、書けるうちに書きまくっていたいというのが率直に思うことです。そうやって今をやり過ごそうとしているのだと感じます。




