3月19日の記ねこと出会った後、一足早く開花した花にも出会った花の場所がわかると、時間があると足をのばす。少し前、まだ蕾だった寒緋桜空いっぱいに枝を伸ばして開花し始めていた春はもうそこまで。みんなの心を楽しませてくれる寒緋桜ーばら科各種の桜にさきがけて開花し、か鮮やかな濃いピンクの花なので目立。紫のヒヤシンスも花開き、ニッコリ笑っているよう安世院の庭に小さな白い花が綺麗夕方、駅近くのビルからの夕焼けオーロラの様に変化していく夕焼けが綺麗今日もたくさんの花にも癒された日
谷崎潤一郎とか川端康成というのは、若い頃はそれほど感心していなかった。夏目漱石のほうが、ずっとしっくりきていたせいもある。今でも、漱石は特別な存在であることに変わりはないが、なんだか細雪の贅沢な世界を久々に堪狽オたい気分になって、映画の前の待ち時間に、神保町の本屋で文庫本を購入。久しく間をおいて、読み直すと新たな発見がある、とは古典にいて良く言われることだけど、いかさま、全くその通り。実際のところ、読みだしていくばくもないうちに、まず雪子に腹を立ててひとりで突っ込みを入れだした次第。、あほらしあんた、なにさまやの云々。ここ二、三日のダーリンとの会話は今日は誰に腹立ててるの今日は本家てな感じ。昔は、雪子をひいきにして、奔放な妙子に反感を持っていたのに、妙子の自由さのほうによっぽど肩入れしてしまう。それにしても、、こんな窮屈な時代に生まれなくてほんと、良かったなどとはじめは思っていたのですが、さらに物語の世界に引き込まれるうちに、この小説の主題は、人間という生き物にとってぬきさしならないあるもの、まり自尊心であることに気が付いた。そして、読みながら何度も頭の中にひらめくのが、大庭みな子氏の文章のあれこれ。ふっと、谷崎が源氏物語の現代語訳をなしとげたという事実と、細雪という作品との目に見えないながりが感じられだした。なぜなら、源氏物語こそ、自尊心の暗い闘いの絵巻のようなものではなかったか。大庭氏が、源氏物語や枕草子といった古典に描かれていることは、皆、いの世にも通じる人のこころのありさま、あやしく、時に不条理な、人間の心のうろいそのもの、だというようなことを繰り返し述べておられるが、それが、細雪を読んでストンと納得できるのである。しかし、こんなにややこしい、面倒な、人間の心の襞を、必ずしも賛成はしたくなくとも、とにかくわかるのは、日本人ならではだろう。日本以外の文化にだって、全く同じものはあるのだが、特にシェイクスピアなんかもそうなのだが、このような繊細さと鮮やかさをもってそれを描きくせるのは、やはり日本文学の伝統の真骨頂だと思う。なぜ、谷崎がーベル賞の候補になるほど注目されたのか、その理由がようやくのみこめた気がした。おそらく、源氏物語を現代語に訳す過程で、文学の本質的主題をぐっと掴んだのに違いあるまい。細雪は、本物だったんだな谷崎潤一郎、端倪すべからざる作家なり。