はじめに
1943年1月10日に現シンガポール港から出港した船はパプアニューギニアのウエワク港に1月31日に入港しました。
未だに、航路や船名は不明のままです。
また、どのような船上生活をしたのかも不明のままです。
陸軍航空隊の名前は第1航空移動修理班と飛行場第25大隊でした。このことを知つたのは敗戦後60年後のことでした。
福岡県庁からの部隊履歴簿に記述がありました。
1 当時のウエワクの戦況
空襲もなく、第20師団や第41師団等の諸部隊はウエワク中飛行場や東飛行場造営に師団長以下朝食後から働いて、1日でも早く完成させて飛行第14戦隊・97式重爆撃戦隊を同地に進出させ、戦況を有利にしようとしましたが、期待外れでした。
聞くところによりますと、航空隊の戦果が上がらずに航空兵は他科の兵隊から文句や因縁をつけられたとか。
その他に、食料が航空兵の方が優遇されていたからでした。
お酒やたばこも後方から飛行機で運んでいましたから。
2 飛行第6師団司令部
司令部はニューブリテン島のラバウルにいました。
3 ウエワク中飛行場と東飛行場
東飛行場。パプアが初めて、降りた飛行場は汗だくだくでした。
2025年の福岡県の夏のようでした。
東飛行場付近。飛行場勤務をしてもろくな食事もなければ娯楽もなしの生活。
パプアは一人で宿から歩いてみた東飛行場。
夏草や兵どもの夢の跡。
中飛行場は現在、道路に。うちの身内の部隊の宿営場所だつたようです。
戦没場所のクワイドの近くです。永遠に真実は不明のママでしょう。
師団長は生還されていました。
戦後の生活は如何なものだつたか分かりません。
おわりに
飛行第14戦隊の期待は見事、大本営陸軍部航空班長九門中佐の予言通りになりました。
下の写真の4名の飛行場第209大隊の生還者の著、「私は魔境に生きた」という本に飛行第14戦隊がレンドバ島攻撃時に甚大な損害を受けたと記述されています。
初代飛行第6師団長等は九門中佐を支持して意見具申をしなかつたのでしょうか?
未だに、不明です。
平和な日本国、平和をいつまでも守るのが戦没者への真の慰霊になるのでは。
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