先日に引き続き、第2弾として19年を振り返ります。
父の死
何でもない土曜の夜、カーシェアを車を借りて、妻と近くのびっくりドンキーに行って、
季節限定のカリーバーグディッシュを食そうと席で待っていた。
すると、滅多にかかってこない叔母からLINEで電話が。
「ゆうちゃん?お父さんが危篤なの。お母さんが電話できないから代わりに電話したの。来れる?」
普段家族からの連絡があってもタイミングが悪くて取れないことも、
申し訳ないが意図的に取らないこともあったが、なぜだか、すぐに電話に出た。
すると、父が危篤になった、という電話だった。
ちょうどハンバーグが到着したが、
すみません、今電話があって父が危篤で・・・と言って急いで代金を支払い、
車に飛び乗り、最寄りの駅まで戻った。駅までの運転はかなりスピードを出していたと思うが、
事故に合わない自信もあったくらい集中していて、最速最短で地元に戻ることを考えて運転していた。
隣の妻が自分以上に動揺して、「え?やだ、、、うそでしょ、、、」とずっと繰り返していたのを覚えている。
地元の駅までは2時間はかかった。
快速がなく、各駅でしか行けなかったが、なぜかスムーズに乗り換えできたような、そんな気がした。
帰りの間、妻は何も言わずにずっと隣にいてくれた。
地元の駅に近くにつれ、妻が一緒というのも、妻に迷惑かけちゃうし、
周りも妻に対して気を使ってられないと思ったので、
地元の駅についたら引き返すよう言い、妻は快諾してくれた。
1人で地元に帰っていたらと思うと、混乱してどうなるか分からなかったので、本当に感謝している。
地元の駅につくと、タクシーに「急いで病院へ」といい向かった。
到着して2階に向かい、父の病室へと入った。
父はいろんな装置をつけ、かろうじての息をしていたが、かなり辛そうな状態だった。
何度かすでに心臓が止まっていたが、看護師さんたちが蘇生してくれたのだという。
父はもううつろだったが、必死に生きようとしていた。母は放心状態。
姉と兄で必死に父の意識が途絶えないよう、いろんなことを語りかけていた。
その病院では扱えない状態になっていたため、
当番医の方がPHSを両手に持ち、手術してくれる周囲の大きな病院へと電話をかけ続けていた。
他の病院からの返答がなく、「くそっ!」と言いながら。
その後奇跡的に大学病院につながった。自分も頭痛の精密検査でお世話になったところだった。
お医者さんからは、救急車で運ばれている間に亡くなる可能性もあります、と言われた。
それでも死を待つわけにはいかなかったので、移動することに決めた。
小雨が降る中、父と母を乗せた救急車は、40分かかる大学病院に運ばれた。
兄の運転で姉、叔母、自分も救急車のあとを追った。
父親は心臓が止まっても生き返ったので、無事移動できることを信じて、病院へ向かう。
ドキドキしながらも、兄の冷静な運転でなんとか大学病院まで移動。
先に到着した母は少し聞いたようだが、
先生から父の詳細な状況と手術についてそこで始めて説明を受けた。
実は父は、危篤になる2日前に下腹部の激痛で入院していた。
その際、原因がすぐに分からず、一旦「鼠径ヘルニア」と診断されていた。
しかしその説明では「鼠径ヘルニア」なんかではなく、
「胃十二指腸穿孔」という、胃と十二指腸に穴が空き、そこから消化液が全身に回ってしまっている
https://www.tokushukai.or.jp/treatment/digestive_surgery/i_jyunishicho.php
という状況らしく、人間の消化液は胃酸と呼ばれるように、酸が強い。
だから、それが漏れ出してしまうと、あらゆる内臓をダメにしてしまう、ということであった。
そのショックにより心停止を繰り返していたという状況だった。
「手術中に亡くなるかもしれない」、
「手術が成功する確率は極めて低い」という、
もう選択肢がないリスクを告げられ、父は手術に入っていくのであった。
父は手術室に運ばれるとき。
家族の前を通ったのだが、なんとなく手をあげたのを家族全員が気づいた。
まるで家族に対して「ちょっと行ってくるわ!」と言っているようだった。
6時間くらいかかる、と言われる手術が始まり、
叔母をタクシーで家に返して母・姉・兄・自分はソファがひとつしかない無機質な待機室で
手術の終わりを待つことになった。
足の悪い母をソファに横にならせた。
母は目をつむる度、むせび泣いたので、ずっと椅子に座って手を握っていた。
がちゃん、という音にびくついて起きる夜。全員満身創痍で時間が経っていった。
4時間くらいたったときに、がちゃんと先生が入ってきて、全員とびあがって説明を聞いた。
「一旦命は取り止めました。(穿孔した穴を塞いで、体内を洗浄した)」
その第一声に家族全員がなんとなくそうなるような気がしていたのか、なぜか驚かなかった。
「ただし、命がつながっただけ。最低ラインが防げただけで、これからどれだけ回復できるのか。
回復できる可能性も極めて低い。意識が戻るかどうかの判断もまだ出来ない。
心停止もあるので、どれだけその影響があるか分からない。」
続いて、そう説明があった。
助かった喜びと、これからの不安が押し寄せてきて感情は混乱を極めていた。
集中治療室に寝ている父は、いろんな機械をつけられていた。
ペースメーカー、人工呼吸器を含む最新の機器だそうだったが、
血圧も心臓のメーターもバラバラで、本当に機械と薬で生きているようだった。
腎臓がやられてしまい、最新の人工透析の機械も装着されていた。
人工透析とは、腎臓の機能が低下してしまったことにより、
浄化できなくなった血液中の老廃物を排出するために
体内の血を一度外に出し、透析の機械を通して、また入れ直すというものだ。
かなり体に負担を与えるようだが、これももう選択肢がなく、やってもらうしかない状況だった。
「まだいつ状態が急変するかわかりません。」ということで、
家族は一晩は待機室が用意され、待機室に寝た。
当然風呂もない、パジャマもない状態だったので極限状態は続くようだった。
長い長い1.5日だった。
次の日も状態は回復せず。「いつ状態が急変するか分からない」という状況のため、
とりあえず病院に寝泊まりすることになった。1、2日して、
血圧が少しだけ落ち着いたこともあり、ずっと戦いは続くので、
一旦は病院から自宅へ帰ることになった。
ここらへんから実は記憶が曖昧なのですが、
(苦しかったので記憶がなくなっているような気がします。)
母だけが病院へ行き、一旦仕事に戻った。
会社から地元まで一本だったこともあり、会社に戻り用のセットを持ち込んでいた。
実はこのとき仕事が大変なことになっていた。
7〜8月にかけてイベントが控えており、そのイベントを間際の間際でほっぽり出してしまった。
幸いにも同じチームで3、4年担当している先輩がいたので、なんとかしのいでもらった。
上司も先輩も中学や大学のときに親を亡くしていたりで、
「後悔しないようにそばにいてやりな」と優しい言葉をかけてくださり、本当に頭があがらなかった。
週末は2連続でイベントを福岡と大阪で実施していたが、
どちらも任せきりになり、申し訳ない状況だった。
父も血圧や心拍数は安定し出し、たまに目をあけて母に反応するようになった。
状態は回復しているかのように見えた。
2週間程度たったものの腎臓の回復が見られない、ということで、
検査も含め穿孔した穴が再び空いている可能性があるので、手術をすることになった。
手術の結果を聞くために姉も母も自分も集まった。
術後のどこまで回復するのか、という少しの期待も持って。
しかし、結果は衝撃的なものだった。
3度の心停止によって血栓が飛び散り、血管を詰まってしまい、
内臓がほぼ壊死してしまって、もういつ亡くなるかと秒読みだと。
写真を見せてもらったが、内臓がほぼ真っ黒になってしまっていた。
先生はしきりに「大変申し上げにくいのですが」という枕詞を繰り返しながら、
「為す術がありません。しかし、本当によく頑張ったと思います。」
兄に急いで電話し、父がもういつ死んでもおかしくない状態だということを伝え、
家族は父が痛まないで死ねるよう、麻酔から覚まさないことに決めた。
半ば無理やり病院の待機室をとっていただき、家族4人集合で父の死を待つことになった。
病院内のPHSは自分の担当だったが、そのPHSが鳴る。
駆けつける前に心停止があったようだったが、家族が駆けつける前に息を吹き返して看護師さんが驚いていた。
しかし、心拍数はわずかに激しく動いている状況で、もう人工透析機も意味がないので、とられ、
人工呼吸器も本人の呼吸をアシストする程度に弱められていた。
だんだん血圧と、心拍数が下がっていき、父は息をひきとった。
人が死んだところを初めて見た形となった。
体だけがそこにあるが、何も動かない状態だった。
晴れた日のことだった。
その後は葬儀社に遺体をひきとっていただき、遺体を安置所へおいた。
葬儀社とのお通夜と告別式の日程を打ち合わせし、家に帰りました。
間のことは省略しますが、親戚や会社関係、近所関係に連絡に追われました。
葬儀では母と兄が言葉を告げました。兄がまさか泣くという衝撃も起きました。
上司2人、先輩1人も東京から本当に遠いところまで葬儀に来てくださりました。
ありがたかった。
一連を振り返ってみましたが、
ここまで読んでくださった方には少し想像したくないシーンがあったかもしれません。
忘れないために自分で振り返ってみたかったのです。
ここからは父の死を通して自分が感じたこととこれからを
書いて行きたいと思います。
1)家族の時間、というプレゼント
姉も兄ももう子供がいて、自分も結婚しそれぞれの家族がいます。
もちろんお正月や休みにはみんなで実家に集まるのですが
ほとんど子供やそれぞれ家族で集まっている形になるので、
純粋に自分の家族だけでゆっくり話す時間がありませんでした。
本当に何年ぶりだろう、10年ぶりじゃないか・・・?
しっかり大人になってからは初めてなんじゃないかというくらい
母と姉と兄と自分で話をする時間をくれました。
いろんなことを前に進めることは姉と兄に頼ることが多かったことが、
自分も大人になって、物事が判断できるようになり、家族の中で
それはこうした方がいいんじゃない?とか、それは俺がやっておくね、とか
家族の中の役割が変わっていて、家族の形をより良くできるようになっていて嬉しかったです。
父が、家族5人の時間をくれたんだと思います。
ありきたりな表現ですが、これがきっかけに絆が深まったように感じます。
2)ICUの看護師のみなさまに感謝。
父は大学病院に搬送されてから、ICU(集中治療室)にはいっていました。
搬送された1日目から24時間体制で看護師の方が面倒を見てくださいました。
その看護師の方が本当に素晴らしい方々でした。
半日ごとに看護師が交代するのですが、
毎回母は同じような話をしては泣いて、
その泣く母に対して真摯に向き合ってくれました。
背中をさすってくれたり、一緒に泣いてくださったり、ずっと励ましてくれたりと。
最後の最後まで一生懸命見てくださった。
本当に父は良い病院に恵まれたなと感じました。
最新の医療設備や治療方法も良いのですが、
やはり人間性と言いますか、お医者さんや看護師の方が良い人だと
不安が軽減されるし、安心して任せられたりします。
感動とともに、看護師さんには大変感謝しております。
3)日本の税制、ありがとう。
最新の医療設備と24時間体制のICU、それに度重なる大きな手術。
我々は真っ先に、お金の心配をしました。
どうなるか分からない状態が続く中で、お金にも限度がある。
そうなると、もしかしたら治療を続けることができないほどに医療費が膨れ上がってしまうのではないか。
家を売るか?車を売るか?どこまで引き伸ばせるのか?もしかしたら治療を諦めなければいけないかもしれない。
そんなドキドキな中、病院の医療相談センターに相談をすると、
父親は75歳だったために高額療養費制度が適用となり、なんとどれだけ医療を受けても、
https://www.kouiki-ibaraki.jp/page/page000019.html
限度額が決まっているとのこと。
母も自分も治療を続けられることに安堵し、涙しました。
初めて日本の税制に感謝しました。
もちろん高齢者が病院に通いまくってしまう制度にもなっていて問題視もされていますが、
本当に治療が必要で、お金がない自分たちにとってはありがたい制度でした。
必要な人が必要な制度を受けられるようになればいいなとは思います。
4)思い出すは"笑顔"
お通夜の際に和尚さんが言っていたことで印象的だった言葉がありました。
「故人を思い出す時、思い出すはなぜかその人の笑顔である」
そう言われてみると、父親が笑っている姿ばかりが思い出される。
すごいなーと思います。
人が死んだとき、人の記憶に残るのは"笑顔"なのであれば、
いっぱい笑っていたいなと思うし、大切な人に笑っていて欲しいなと思うし、
人を笑顔にできる仕事やものごとって素晴らしいことなんじゃないかと思いました。
自分もなるべく笑顔で、
大切なひとも笑顔ていてもらえるように、
周りの人を笑顔にできるように、
行動していきたいなと思いました。
5)妻との絆
今回妻をひとり東京に残し、父のそばにいました。
また葬儀のときも、親族として参列してもらいました。
妻はだまって、そばにいてくれて、いろんなことを文句も言わず手伝ってくれました。
本当にありがたかったし、家族として人生を共に歩めるパートナーだと思えました。
それは恋人でもない、もう何ランクでも上にいった存在、関係になったと思います。
実は最近まで見れなかった父からの手紙がありました。
その手紙には涙そうそうの歌詞が書いてあり、その最後には「いつまでも仲良くね」とありました。
妻を大切な存在にしてくれたのも、父親のおかげだと思います。
これから
19年の父親の死を経て、これからを思います。
1)母への親孝行(孫と旅行)
父親に結婚式に出席してもらえたことは本当によかった。
最後の言葉を父親が一生懸命に読んでくれたことは思い出すと今でも泣いてしまうのですが、
晴れ姿を見せることができたのは本当によかったと思います。
ただ孫の姿を見せることができなかったことは残念でした。
母もいつ亡くなるか分からないので、母には孫を見せたいなと思います。
もちろん自分の人生ですが、母親に孫を見せるということを考えることも自分の人生にとって大切なことだから。
歳を取ってから産まれたこどもは早めに早めにやっていかないといけないなと思います。
また、旅行にも連れて行こうと思います。
本当は父親と母親を連れて海外に行きたいなと思っていました。
がもうそれも叶うことはないので母親を連れて行きたいと思います。
まずは長崎のハウステンボスです。行きたいといっていたので。
2)父からの継承(愛情と経営者として)
父は仕事熱心であまり子育てには口を出してこなかったです。
しかし、車にはいつもこどもの写真を飾っていた。
愛情だけはあったように感じます。
母親ももちろんですが自分の家族は愛情だけはある。いろんな形はあるのですが。
そんな愛情を受けて来た自分だからこそ、
何かしらの形で社会に愛情を振りまけるようなことをしたいと思います。
また自営業の父だったので、いつか事業を立ち上げて自分も何かやりたい、と改めて考えました。
具体性がないのですあ、無いなら創る、くらいの精神でいたいと思います。
父の死はとても、とても、とても大きな出来事でした。
辛くて、苦しくて、寂しいです。
みんなこんなことを乗り越えて生きているんだと思うと、人間で強いなと感じます。
もちろん時間が解決してくれるのかもしれないのですが、、、
でも辛くて、苦しくて、寂しいからこそ、
だからこその人生を歩んでいけるんだと思うから、
手に入れたものをしっかりと握りしめて前に進んでいきたいと思います。
つらつらと長文失礼しました。


