「フルネスの海で」掲載エッセイ ちょっとした仏教考(1990年1月「かもめ通信」)
ちょっとした仏教考 大事な人生、苦ばかりじゃない 仏教用語は漢字ばかりでたいへん いつのことだったか忘れましたが、あるときマハリシ師の高弟ナンキショー博士が来日して、おっしゃいました。「鎌倉や奈良では、昔から毎日お釈迦さまが瞑想なさっています」 と講演に詰めかけたみなさんの笑いを誘ったことがありました。なるほど、鎌倉、奈良の大仏様は瞑想するお姿です。(厳密にいうと両大仏さまともお釈迦さまではないのですが、これはジョークですから念のため)考えてみますと、仏教と瞑想はけっこう関係の深いところがあります。 そのせいもあるのでしょうか、特にご年配の方から、TM関係の説明を仏教用語でできないだろうかとおっしゃられることがあります。なかなか、そこまでの学識はありませんから、つい二の足を踏んでしまうのですが、逆にTMをしてから仏教がよく分かるようになったという体験談も、確かに多いのです。 聖徳太子以来、日本人はかなり仏教文化の中で過ごしてきました。日常会話の中にも、探すとずいぶん仏教関係のことばが見つかります。覚悟する、億劫になる、因縁をつける……、あまりいいことばがありませんね。……三昧、文殊の知恵なんてのもあります。それから、おシャカになる(これはちょっと不謹慎)など、試みに国語辞典をめくってみますとずいぶん見つけられます。 ただ、現代仏教が一般から受けている評価は少し考慮しておく必要はあります。かなり馴染み深いはずなのですが、一般的に仏教というと、難しい教理哲学か、年の初めになんですが、お葬式のイメージを思い描く方が多いのも事実のようです。 お葬式はともかくとして、仏教哲学はずいぶん難しいと思われています。それでなくても、日本の仏教は中国経由のいわゆる北伝仏教であり、中国語に訳されたものが主流になっています。ために、その用語はすべて漢字に置き変えられていますので、もうそれだけで、いかにもいかめしい雰囲気が漂ってきます。 お坊さんも顔負けTM実践者の人生観 まあ、しかしそれだけではなくマハリシも述べているように、お釈迦さまが亡くなってから、正しい知識、つまり実際的体験と、それを支えるきちんとした方法論がなくなってしまったために、あれこれ形而上学的論議ばかりが残されたのが一番の原因かもしれません。 ですから、かえってTMを実践している方々の中で、そういったお釈迦さまが説いたことと同じことが、何気ない会話でささやかれていることがあるのも、不思議なことではありません。それは、ひょっとすると何十年も修行してきたお坊さんが舌を巻くくらいのものかもしれないのです。 たとえば、瞑想している方に多いのが、人生を肯定的に考える前向きな姿勢があります。ほとんど「人生は苦である」をしっかりと飲み込んで生きている人ばかりの現代、こういった楽天的人生観はときおり能天気に見えたりするかもしれませんが、実はたいへんな真理を直観している可能性があります。 このことば、他ならぬお釈迦さまが言い出したことです。以来二千年、人類はこのことばの呪縛にとらわれ続けてきたというくらいたいへんな哲学です。その深遠な哲学に真っ向から対立するようですが、実はこれは矛盾でも何でもなく、仏教哲学の中でもかなり初歩的理論を見直すと簡単に分かることなのです。 四聖諦という基本的観点があります。仏教哲学が馴染みにくいのも、このように漢字がやたら出てくるからですが、訳してみるとたいしたことはありません。「聖諦」というのは真理、教えのことですから、四つの真理、もしくは教えだと思えばいいでしょう。内容は何かといえば、苦集滅道の四つ(やっぱり漢字でごめんなさい)で、「苦」から説明していきましょう。 気楽にみなさんが口にする四苦八苦という、いかにも脂汗が出てきそうなことばがあります。これも仏教用語です。いわゆる生・老・病・死の四苦に、愛する人と分かれる苦しみ(愛別離苦)、嫌いな人と会う苦しみ(怨憎会苦)、求めるものが得られない苦しみ(求不得苦)、この世に存在するということの苦しみ(五薀盛苦)の四つを加えて八苦。四苦八苦。いかがですか、ここまで徹底的に「人生は苦である」ということを説いているわけです。なかなか人間やるのもたいへんなものです。しかし、ここであきらめてはいけません。これは、まず人生に苦というものがあるということを論じているだけのことです。 これが方法? 正しく見、正しく思う…… 次に「集」がきます。これは苦の原因を説くものです。お釈迦さまはその原因を「無明」にあると教えています。無明とは要するに無知、知恵のないことです。有名な十二因縁説がありますが、こちらは面倒なのでやめておきますが、要するに無知からあらゆる問題が生じるということです。 そして、次が肝心です。「滅」。苦がなくなった状態があるということです。ここを見逃すと苦しみばかりの人生が待ち受けています。この状態を仏教では涅槃(ねはん、梵語ニルヴァーナの音訳で煩悩の消えた状態)といいます。この辺は瞑想している方には、純粋意識とか宇宙意識とかいったことばの方が分かりやすいかもしれませんが、まずは、おいておきましょう。 そして、次にくるのが「道」です。これはその「滅」にいたる方法があるということです。だんだん佳境に入ってきます。さあとうとう方法論まで来ました。 ところが、この辺りから雲行きが怪しくなっていきます。一般的に仏教哲学の方法論で有名なのは八正道というのがあります。正しく見、正しく思い、正しく行い……、という例のやつです。これでしっかりと方法を知ったと思う方はどれくらいおられるでしょうか。わたしなどは、思わず「何だこれは」と口走ったものです。どうにもこれだけでは具体性がありません。しかし、もう一つ別の観点があるのです。 お釈迦さまの最後の旅の消息を伝えた「大般涅槃経」というお経があります。このお経、生のお釈迦さまの様子が伝わってきてなかなか文学的香りもあり、けっこう感動的なお経の一つでしょう。それはさておき、さてこのお経の最初のあたりですが、あちこちの村に赴いては説かれている教えがあります。しかも相手が出家者ではなく、一般の在家者のために説かれているのも注目に値します。戒と定と慧、この三つです。あちこち渡り歩きながら「戒はかくかく、定はかくかく、慧はかくかく」と、内容はつまびらかにしていませんが、とにかくそのたびごとにこれが出てきます。 自然法則に即した生活と瞑想し、知識をみがく これも日本語にしてみれば分かります。「戒」とは、戒律のこと、つまり日常守るべき規範と考えればよいでしょう。このあたりは、善いことをして悪いことはしないなど、在家者相手ですから、一般的に好ましい生き方を教えていたのではないでしょうか。マハリシの教えを当てはめてみるなら、自然法則に即した生き方がぴったりします。 次の「定」これはまさに瞑想のことです。サンスクリット語のディアーナを音訳して「禅定」もしくは「定」としたようです。実は八正道にも「正しく瞑想し」というのも含まれています。お釈迦さまも瞑想を教えていたとマハリシが説明しているのもうなずけます。 さてもう一つ「慧」これが分かりづらいことばでした。というのも、解説書を見ても「知慧」のこととそっけないからです。しかし、マハリシの創造的知性の科学を当てはめてみれば一目瞭然です。つまり、前号で論じた、いわゆる知識のことと考えればすっきりします。 要するに、戒と定と慧ということでお釈迦さまが教えているのは、自然法則に即した生活をし、きちんと瞑想し、知識をどんどん啓いていきましょうということになります。いかがですか、いずれももうすでにみなさんがそのまま実行している、あるいはしつつあることではありませんか。 こんなふうに仏教を見直してみますと「人生は苦である」ばかりではなく、ちゃんとそれを越えた境地があると教えていることが分かります。ですから、TMを実践している人たちが楽天的人生観をもっているのも、お釈迦さま本来の教えに合致することになるわけです。 ただこれも確かに、純粋意識を体験することのない一般の方には、相変わらず難しいことではあるかもしれません。これは、出家の道を選ばれたお坊さんでもけっこう苦労しているところのようです。何気なくいそしんでいるTMですが、その意義は計り知れないものがあるような気がします。こうして、気楽な人生がおくれるということは本当にありがたいことです。 何年か前のことになります。作家の水上勉氏の講演があるというので聴きにいったことがありました。小さい時分に寺に預けられたという経歴と、かつ仏教への強い思い入れのある氏の話は、ときおり現今の仏教のありように対するきびしい批判を交えていきます。お墓や戒名をお金でやり取りする話や、いわゆる冠婚葬祭にばかり傾いている現仏教へのやるせない思いが吐露されていきました。途中、たぶんそういったお寺さん関係の方でしょう、立ち上がって帰ってしまった方もおられました。自分のよりどころにしているものを批判されるのは気持ちのいいものではありませんから、それもまた分かる気がします。今やひとつの職業としてお寺の役割もあるでしょう、それはそれとして、人間としての本当の生き方を教える本来の仏教をもう一度考え直す時代にきたのかもしれません。 マハリシの知識もますますいろいろな分野で応用されていくような予感のする今日このごろです。