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ずぼらに おおざっぱに てきとうに なにか書こうかなという程度、、、以外になんにも考えていません。

翻訳者の広田敦郎氏がNTLiveのパンフレットで、「誰が誰だか分からなくなる問題」を改善してわかりやすくするために、「敬語も使ったりすることで変化をつけました。[…]ヘルマンに対し、ちょっと丁寧に喋らせたりして、力関係や距離感を表現してみました」と仰っているが、それは必要な工夫だっただろうか。そもそも台詞を発する俳優が(声も演技も)まったく異れば、原文にない要素をわざわざ付け加えてまで変化をつける必要はないのではないか。さらにそもそも、ヘルマンが成功した実業家だからと言うだけで、この一族の同世代の人たちは彼に対して敬語を使うだろうか。とりわけルードヴィク、エルンストとの3人間に、敬語になるような特別な上下関係や「力関係や距離感」が生じていたとは、原文を読んだ折には感じられなかった。勿論、とりたてて批判するべき部分とは思わないし、大変な訳業には有難さを感じるばかりで、特にラスト、私の好きなセリフが素敵なシンプルな訳語になっていて、幸福だったけれど。

 

と、翻訳について少し思ったところを述べた上で、以下は「登場人物が多すぎて覚えていられなかった」「理解しきれなかったので、これから公演パンフレットで復習する」という人達の経験について。たしかに、おびただしい登場人物や歴史的出来事への言及が巨樹の枝葉のごとくに広がり延びて織りなされていった作品、その作品が枝先から私たちの方へ差し伸べてくる名前や情報を、観客が初見ですべて把握することは困難である。一族の系図を、新国立劇場ではロビーにチャートで示し、NTLive版では、場面転換の折にスクリーンに写して示していた。登場人物の名前は連呼されるけれど、私も新国では劇場の後方から見ていて役者の顔もよく判別できず、たしかに誰が誰だか追っていきにくかった。しかもお芝居は当然ながらそれぞれの人生の一コマを切り取り続けるだけだから、個々の人々の生活や考えの、ほんの一部をかすめとることしかできない。だからこそ、覚えておけないのは当然のことだ。

 

他方で、観客に(詳細な解説や情報を求めて)公演パンフレットを買う必要を感じさせるべきではない、本来そういうことはすべて芝居に語らせるべき、と、アラン・エイクボーンが以下のように述べていることは正しい:

 

Ideally, [the audience] shouldn’t need to have bought a programme anyway. Apart from telling you the real names of the actors involved, a programme is there to enhance a play, not to explain it. I always detect a certain lack of confidence when I open one which contains a glossary or a detailed explanation. If essential information is not in the play itself, we’re in a certain amount of trouble.

 

ストッパードはエイクボーンと同じくプロの劇作家なのだから、ほぼ間違いなく、観客が系図や人物相関図を覚えられない・劇中に出てくる事象のすべてを理解しきれないことは織り込み済みだろう。むしろ観客が覚えていられない・理解しきれないことには、とりわけこの作品については意味があるはずなのである。劇中で名が呼ばれている人々は、3人を除いて、いずれ民族抹殺によって歴史の忘却の淵に沈んでいく。その上で観客が「誰が誰だか分からなくな」ったら、それは悪しき「二重の忘却」だろうか。「歴史の風化」と同義であろうか。そうではないだろう。

 

歴史の渦や津波の中で忘れ去られた人たちの名前や存在が、それでもなお、たしかにそこに存在したのだと感じ取れること、それはこの作品における「見出された時」だろう。観客は、その「見出された時」が胚胎するプロセスとしての忘却を、「覚えていられない」時の積み重ねとして追体験していると考えられないだろうか。「覚えていたいけれど覚えていられない」「覚えていられないけれど覚えていたい」、この観客の経験がラストのレオの視線の先に、繋がっていくように思えてならない。もちろん、レオの場合は身体的記憶を、ヒトカケラ、結んでいくことになるのだけれど。記憶には刻み切れなくても、せめて過去に生きた人の存在やアイデンティティの残響を感知する経験は残る。ラストは、これから死のうとしている人々(生きのびた人達・観客)と、すでに死んでしまった人々(登場人物)が、忘却の経験も否定されることなく、同じ時空間を共有する試みであって、それが劇中世界と現実世界を繋ぐ。「覚えていられない」という観客の感じる「置いてかれた感」や「喪失」の経験は、この作品の一部として、必要なものでもあるとさえ感じられる。勿論、レオの忘却は、民族的アイデンティティの記憶がイギリスの教育によって消されたことによる忘却で、そこと観客のこの忘却は等号では結ばれ得ないけれど。

 

いずれにせよ、この作品に「覚えていられなさ」も込みの僥倖を感じられるとしたらそれは、郷愁のようなロマンティックな退行への逃避でもなく、故人の記憶の情報化による客観的清算でもなく、舞台を時空間に沿って緻密に再構成し、そこにありとあらゆる手立てを使ってその時代の匂いを吹き込むストッパードの作風の所産とも言えるだろう。

 

※詳しく知りたい人には勿論情報がある。私も『レオポルトシュタット』を扱った授業ではありとあらゆる史実について説明しまくった。

マーバーのインタビューのポッドキャスト↓

033 - Leopoldstadt by Tom Stoppard - The Play Podcast

 

で、こちらが「脚注」↓

Leopoldstadt - Footnotes - The Play Podcast

 

※NTLive版、セバスチャン・アルメストがあまりにも名演技だったために、ルードヴィクとヤーコプとナータンを、彼、つまり同じ俳優が演じていたと「気づかなかった」と言っている感想を耳にしたことは、また別の意味で面白かった。後から気づくのも、それはそれで、一興ではないか。

 

 

※たくさんの登場人物がいるお芝居を「わかりやすくする」ことの是非について、次のSPAC『リチャード二世』のポストでも取り上げて考えてみたい。これは今までになかったタイプの「わかりやすさ」の二重性について、になる。