おはようございます。昨日は急に冷え込んで来ましたね。かと思うと今日は暖かいです。もう春がすぐそこまで来ていますね。
昨日は、結婚したことない自分が結婚について語ってしまい、申し訳ございませんでした。和多志がハマっているアニメ「チ ー地球の運動についてー」が土曜日に最終回を迎えました。今回も非常に面白い内容でした。この作者の20代の魚登さんの作品をもっとみたいです。漫画読むのがあまり得意でないのですが、そろそろ漫画の読み方を覚えた方が良いのかもしれないと思いました。漫画から教わることって結構多いとよく聞きます。
皆様は、たとえどんな犠牲を払ってでも、成し遂げたいことはございますか?和多志も自分がこのような想いを抱くなんて想像もしていませんでしたが、それに近いようなことがあります。ところで、ギリシャ語で「驚き」「驚嘆」「驚愕」を意味する「タウマゼイン」。古代ギリシャでは「知的探究の始まりにある驚異」とされているこの言葉。この世の美しさに痺れる肉体のこと、そして、それに近づきたいと願う精神のこと。つまり―――「?」と、感じること。和多志はアニメを通じて初めてこの言葉を知りました。まさに自分はこのタウマゼインに突き動かされているのではないか、と氣がつきました。真理を知ることが、最近特にとても面白いと感じます。信じることと疑うこと。和多志はどんなもともまず信じたいと思います。ただ、自分が思っていること、感じていること、考えていることに対しては、常にどこかで疑っている氣もします。
***引用***
『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なことじゃないかってことです。
第三者に反論が許されないそれは―――――信仰だ。
信仰の尊さは理論や理屈を超えたところにあると思いますが、それは研究とは棲み分けられるべきでは?
(4巻 p120~123)オクジー
***引用***
アニメの中のオクジーさんの考え方と自分の考えが似ていると感じました。彼の言うそれは、科学哲学者のカール=ポパーの言う「反証可能性」であり、心理学者の鈴木光太郎の言う「科学とは、絶対的真実を認めず、常に誤りを修正し続ける活動」でもあるようです。和多志は自分の人生の体験経験を通じて、今のこのようなスタンスとなっていますが、これは、単に学術や研究に限らず、どんな人間にも持った方が良い考え方や意識な氣がします。また、常に疑念と信念を持つことが大事なのかもしれません。疑念がないと、それは盲信であり信仰であると思います。信念がないと、道を失ってしまうと思います。
「より洗練されたものになるために反論可能性を残すべきという科的な態度」と、「自分を感動させたもののために他人の言葉に耳を貸さず己の心に殉じるという信仰への態度」は、オクジーの中で矛盾しません。前者は世界にとっての地動説であり、後者はオクジーにとっての地動説。別の言い方をすれば、前者は地動説という枠の内側での論理的整合性の話であり、後者はその枠組みそのものへの思いなのです。彼の生命は、この後に絶たれるのかもしれません。ですが、地動説を残そうとする彼の思いは、また次の人間へと託されるはずなのです。それは積み重なる知なのです。アニメを見ていない方は申し訳ございません。
「この世の美しさを追求したい。たとえ、どんな犠牲や代償を払っても。」
「迷いの中に倫理がある。迷わなくなった時点で、信念が呪いとなる。迷い続けることで、色々なものが見えてくる。」
彌榮ー
おはようございます。暖かくなったかと思ったら、また急に寒くなったので、お身体にお氣をつけて暖かくお過ごし下さい。
最近、一夫多妻の男性がYouTubeをしているようで話題になっています。ご存知ですか?この男性はヒモのようで、経済的な負担は全て女性たちがしているそうです。それは相互が同意の元であればどうでも良いとして、女性も女性同志仲良くやっているようです。和多志もふと、思うことがありました。それは、家族が他の家族と一緒に住んだら、お互い協力し合えて無駄な部分がなくなるから、メリットが多そうだと。また、特にシングルマザーの方同士で一緒に住んでいる方もいると聞きました。世間一般の考えとは異なりますが、合理的な氣がします。また、一夫多妻の考えも良いと思います。
皆様は結婚とは、何だと思いますか?こんなこと言うと、何言ってんのと言われるかもしれませんが、それらを覚悟の上で言うと、”所有権の移転”な氣がします。この一夫多妻の例で言うと、日本の法律では多重婚が認められていないので、籍は入れていないようですが、女性たちの一切のものが、男性に所有権が移転したという見方もできると思います。このように、一夫多妻では、大きな家族という組織が出来上がって行くと思います。一方で、一夫一妻制であれば、奥様が1人なので、産めるこどもの数も限られてくる為、家族と言っても人数が限られてきます。
なぜ、日本をはじめ、一夫多妻制は廃止されたのか。和多志は、この理由は、前の段落で述べたことと関連していると思います。大家族で結束してしまうことを避けたい人たちがいた、またそのようにした方が我々をコントロールしやすいと考えた人たちがいた、その為、一夫多妻制は廃止されたと。どちらが正しいかを議論するつもりはございませんが、どちらも経験した人が、批判したり、評価するのは良いと思いますが、一夫一妻制しか経験したことがない人が、一夫多妻制は有り得ないというのは、お門違いな氣がします。もちろん、これによって、どんなにモテる男の人でも1人の女性しか選べないという状況になるので、モテない男性にとっては有り難いことかもしれません。しかし、國力全体で見ると、優れた優秀な遺伝子が多く残るという動物界の摂理とは合致していない氣もします。皆様はどちらが良いと思いますか?
彌榮ー
おはようございます。昨晩「お金のいらない國」長島龍人さんの本が届きました。今朝さっそく読みました。そこで特に印象的だったあとがきを引用させて頂きます。
お金がなければ生きていけないと多くの人が思い込んでいるこの社会。しかし本来、動物は、空氣と水と少しの食べ物があれば生きていけるはず。紙切れや金属でしかないお金が、人間が生きていくのに必要なわけがありません。しかし人間は、お金がなければ回っていかない社会を作り、そのお金を奪い合うことによってたくさんお苦しみ、計り知れない犠牲を生み、かけがえのない地球環境まで破壊し尽くそうとしています。
今、この問題は全ての人が自分のこととして考え、生き方を見直し、行動を起こさねばならない時に来ています。実現不可能、夢物語と、考えることすら拒否していては地球の未来はないでしょう。たしかに今すぐお金の存在をなくすことは難しいでしょう。しかし、1人でも多くの人がお金というものの本質に氣づき、お金に囚われない生き方をすることによって世の中は必ず変わってくるでしょう。是非、希望を持って、お金のいらない國の想像をふくらませ、楽しんで頂きたいと思います。
うちのお店でもこの本の取り扱いを開始するかもしれません。50ページ前後の短い内容で、簡単な内容です。しかし、お金のいらない國を想像するきっかけを思い出させてくれるものだと思います。この現代のあらゆる問題を解決させてくれる根本解決となる道な氣がしています。1人でも多くの人に読んでいただきたい内容です。また、この方の”お金のいらない國”落語を2025/5/10(土)せせらぎホール@等々力にて舞台をやる予定です。是非、それまでにこの本をお読みになってご興味ある方はご参加ください。皆様と一緒にお金のいらない國で一緒に生活する未来を想像して創造していきます。それは、きっと、愛と調和に満ち溢れた世界だと思います。
彌榮ー
おはようございます。今日は、アゼリア幼稚園に行って、トマトの苗を寄附して来ました。子ども達とのひととき、とても楽しかったです。純真でピュアな子ども達と一緒にいると自分もピュアになれます。有難うございます。昨日、島らっきょうを生のまま食べ過ぎてお腹痛くなりました。皆様もお氣をつけて下さい。
今日は、久しぶりに食についてのお話をします。グルテンフリーという言葉がだいぶ聞き慣れるようになりましたが、皆様はわかりますか?小麦断ちのことです。小麦の中に含まれるグルテンが原因でリーキーガット症候群といった腸壁を通過するようになったり、消化する際の消化産物としてモルヒネのような物質を出す為に依存性があるなどと言われています。和多志自身、大學卒業後に、小麦と牛乳を絶つ生活を2年して花粉症とアレルギー性鼻炎を克服したという経験があります。都内でも、米粉パンのお店が増えて来ました。自由が丘ベーカリーは小麦のパン屋さんでしたが、久しぶりに覗いてみると米粉パン専門店に変わっていました。
信頼できるパン職人さんとの話です。整体の先生の所から近くて、よく通っていた桜台にあるオオナミというパン屋さんです。こちらの店主さんとよくお話をしていました。そこで、彼のパンに対する想いもよく聞いていました。このパン屋さんのパンは小麦アレルギーの方が食べても大丈夫ということです。時間をかけて、分解して熟成させているようです。天然酵母にこだわっているパン屋さんです。天然酵母米粉100%パンを作れたら、是非うちのお店に置かせて欲しいということを伝えて、引っ越して来ました。それから、彼自身で色々と試行錯誤してくれたようです。自家製の天然酵母にこだわりを持っており、イースト菌は使用しないという方針を決めたようです。というのも、サイリウムなど、一般的に米粉パンに使用される添加物についても十分検討して頂いたようですが、身体への影響について議論の余地があると判断されたようです。小麦もアレルギーや炎症反応を起こすと一般的には知られていますが、オオナミさんでは、時間をかけて分解、発酵させており、小麦や添加物アレルギーをお持ちの方でも、他では食べられないけど、ここのは食べられると言われているようです。
近々、お試しで、ここのライ麦100%パンとスペルト小麦100%パンを置くかもしれません。巷の米粉パンのお店では、商品成分表を見て驚きました。小麦が抜いてあるのは、良いのですが、その代わりに余計な添加物がいっぱい入っていて、それならわざわざグルテンフリーという言葉にだけ釣られて買うのは、違う氣がしました。ビジネス的に流行に乗るという考えも大事なのかもしれませんが、それって、利益しか考えていなくないですか?食べる人の健康や体のことを本氣で考えていますか?我々消費者が賢くならねばならんのですが、なんだかなーと思いました。本質を見極める力というか、流されない力というか、大事だと思います。お米を50回しっかり噛んで食べていたら、心も身体も美しくなると思っています。試しに米粉パン買いましたが、エネルギーを感じません。一方、お米は少しで満腹になる氣がします。
彌榮ー
おはようございます。最近は、九品仏での生活にも慣れて、毎朝のルーティンが決まって来たので、お店を早めに開けています。
最近"助け合い主義"を実践されている方とのご縁があり、自分も現在勉強中です。この代表の方は当時18歳の時に、世の中の異変に氣がつき、それらからの脱却・世直しの為にNPO団体を立ち上げてこれまで活動されて来ました。北海道で100-200人規模で大家族として同じ屋根の下にみんなで生活を共にして、お財布も共にするという状況です。彼らがまず目指している所は、支配力の持ち過ぎたお金に依存しない生活の確立です。人間以外の動物は、お金など生きる上で必要ありません。なのに、どうして人間だけがお金が無いと生きていけないと思わされているのか。1人1人の思考が変われば世の中も変わってくると思います。また、彼らは実際に行動されているのが、凄いと思いました。和多志も今現在、彼らの考えや実践していることを勉強させて頂いており、確信が持てた段階で、必要な方には情報共有させて頂けたらと考えております。
想像してみて下さい。皆様と仲の良いみんなが一緒にお金の縛りを氣にせずにただ同じ時間を共有して楽しむという生活を。少なくとも、和多志はお金のない世界を見てみたいと思いました。お金を通じて、人は分断されたり、不安や恐怖に直面させられたり、している氣がします。本来、人間は、もっと前向きで歓喜や感謝にだけ意識を向けていれば、無限の可能性を秘めているのにも関わらず、お金を通じて世の中に対してのイメージや、不安や恐怖を煽ることをされている氣がしてなりません。また、お金関係で人のことを嫌悪してしまうことがありました。お金払いやお金については、特にその人の本性が垣間見れるものだと思っています。そんな時、お金という概念やお金がなければ、このようなネガティブな感情を抱く必要もないのに、、、と。もちろん、和多志じゃなくて、相手の方もやむを得ない事情やおそらく自分自身の中にある不安や恐れから、そういった行動をしているのだと思いますが。
最近、聖書について學んでいます。もちろん、和多志は無宗教なので、特定の宗教には属すつもりもございません。聖書というと皆様はどのようなイメージを持たれますか?キリスト教でしょうか?和多志は今、客観的な公式や考えを用いた聖書の理解を深めています。皆様が想像される、キリスト教的な聖書の學びとは、意味が違うと思います。実際、クリスチャンの方と聖書の理解についてお話させて頂く機会がありましたが、全然違いました。向こうも驚いていました。もちろん、彼らの學びについて否定も肯定もしません、するつもりはございませんが、彼らがしている聖書の内容を聖書だけで理解して解釈するという取り組みは、おそらく彼ら信仰者以外には、受け入れ難いものとなってしまうと思います。しかし、その聖書(神話)の内容を、聖書から離れた客観的な公式や考えに当てはめて理解することで、閉鎖的ではない、オープンで、誰もが納得できる内容(あるいみで哲學的な)になる氣がします。それにしても、聖書って面白いし、考え尽くして書かれたものだなーと心の底から思います。これまで、和多志は學校での歴史の勉強は好んでしてきませんでした。しかし、最近歴史や聖書の勉強が好きになって来ました。「文字って、まるで奇跡ですよ」という考えに出会ってから、かつての偉人たちの言葉と触れられる機会や時間が、今やこれからを考える上で必要な氣がしてます。
彌榮ー
おはようございます。昨日は定休日でしたので、色々な予定がありました。本日は通常営業です。
今日まで中村天風さんの「運命を拓く」で和多志が共感した部分を取り上げたいと思います。
「信念の重大性は早くから、人生を考える學者や、識者には、感じられていたのである。」
「現代の人間は情けないほどそれをそうと考えず、何でも、まず疑いから考えようとする。」
「現代の人間、時に理知教養のある人ほど、諸事万端、他人事ばかりでなく、自分のことまで疑って人生を活きる悪い心持ちを持っているには、科学教育の余弊だといってもいい。」
「人生にとって一番大事なことは信念であるということはわかっているが、それほど重大な信念は、そうすれば確立され、どうすれば信念が強くなるか、という実際の方法は誰も解いてはいないのである。ます信念を煥発することである。」
「病があれば、ああ、ありがたいなあ、自分の活き方が悪かったから、神がそれを教える為に与えて下されたお慈悲だと、いつも先生がおっしゃっていらっしゃいましたが、和多志もそう思うようになりました。心が全然昔と違ってきまして、この頃では、憂いこと、苦しいこと、こっちから引き受けてする氣が出てきてるんです。有難うございます。」
「自分自身の心の中の思い方や考え方がよくも悪くも自分自身をつくり上げるのだ。」
「普段からの心がけに注意しなければいけない。"真"、"善"、"美"以外には、心を使わない、というように心してごらんなさい。」
「”真”とは、偽りのない”まこと”」
「”善”とは、”偏頗なき愛”をもって、ものに接する行為と言葉”」
「”美”とは、”調和”」
「わずかなことであるが、”心一つの置きどころ”である。」
「宇宙霊という生ける大きな生命は、常に我々人間の心で思ったり、考えたりする事柄の中で、特に観念が集中し、深刻な状態の時に、その観念が、その事柄に注がれると、咄嗟にそれを現実の”すがた”に表現しようとする自然作用があるのである。」
○本書で引用されている偉人、聖人たちの”信念”についての名言
釈迦「信ぜざれば救う能わず、縁なき衆生は度し難し」
キリスト「まず、信ぜよ」
マホメット「疑って、迷って、真理から遠ざかる者よりも、信じて欺かるる者、汝は幸いなり」
孔子「信は万事のもと」
メーテルリンク「能うべくんば、究むるもよし、さりながら究め能わざるものは、信ずるにしかず」
ゲーテ「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる」
いかがでしたでしょうか?
和多志は、幼稚園の時に聖書を毎朝読んでいたので、キリストの言葉が潜在意識に入っているのかもしれません。「まず、信ぜよ」に非常に共感しました。
今日も素敵な1日をお過ごし下さい。あなたの心持ちがあなたの目の前の現実を創ります「わくわくしてお過ごし下さい。」
彌榮ー
おはようございます。少しずつ暖かくなって来て春の訪れを感じるようになりましたね。今日は定休日です。昨日は、久しぶりに渋谷に行って自然栽培農家さんとお会いして来ました。今日も昨日に続いて、中村天風さんの「運命を拓く」から自分が強く共感した内容について抜粋させて頂きます。
「潜在意識は、宇宙霊と同様、一切のものと作り出し産み出す創造力を有している。」
「昔から哲學も宗教も修養法も、全て”心の持ち方””心がけ”ということを人生の一番重要なものとしているのである。心理学では、これを暗示の無条件感化といっている。」
「自分が思っていて、それが直接的には自分の心の態度を、そして結果において自分の人生や生命に大きな影響を与えるものは、、、、”言葉”である。」
「人生というものは、言葉で哲學化され、科學化されているかたである。すなわち言葉は人生を左右する力があるからである。」
「その一言一言、その言葉全てが、人生に直接的に影響する暗示となる、という大事な宇宙真理を絶対に忘れないこと。」
○言葉の誦句
「和多志は今後かりそめにも、我が舌に悪を語らせまい。否、一々我が言葉に注意しよう。
同時に今後和多志は、もはや自分の境遇や仕事を、消極的な言語や、悲観的な言語で、批判するような言葉は使うまい。
終始、楽観と歓喜と、輝く希望と溌剌たる勇氣と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。
そして、宇宙霊の有する無限の力が我が生命に受け入れて、その無限の力で自分の人生を建設しよう。」
彌榮ー
和多志が特に共感して、良いなーと思った内容を抜粋しました。読んでみてください。
「どんな場合にも、心の思考作用と、宇宙を司る宇宙本体の創造作用ー物を産み出す力ーとは、別々に分かれているのではなく、本質的に、一つのものであるということを忘れてはならない。」
「心というものは、万物を産み出す宇宙本体の有する無限の力を、自分の生命の中へ受け入れるパイプと同様である。」
「今まで気付かずにいたかもしれないけれども、人生の一切は、健康であろうと運命であろうと、肉体も、心も、また環境も、すべてが人の心によって創られているものである。」
「人間の健康も、運命も、心一つの置きどころ。」「心の思考が人生を創る。」
「何か人間以外にできないことを人間にさせるために、他の生物にない力を与えられている。その力があるから万物の霊長なのだなあ。」
○力の誦句→毎晩寝る前に唱えたら良いことがあるかもしれません(^.^)
「和多志は、力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打ち克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、否、あらゆる全てのものに打ち克つ力だ。
そうだ!強い強い力の結晶だ。」
彌榮ー
おはようございます。今日は晴れているものの寒さを感じる日となりそうですね。昨日は結構恥ずかしい記事を書いてしまいました。
皆様は抽象的な表現が多くて理解に苦戦した本と出会ったことはございますか?また、その場合、どうしていますか?(特に神秘思想家や哲学者などの昔の本に多いかもしれません)和多志は、以前までは、そのような難しい内容の本と出会った場合には、途中までで読むことを辞めて、もう少し初心者向きに書かれた易しい内容の本を読んだ後に読んでみる、という試みをしておりました。ただ、この場合でも、原書を完全に理解するまでに非常に多くの本を読む必要があります。また、本を読むということと並行して、現実世界での経験や体験を通じて、本の内容が理解出来たという経験もあるので、本だけに留まらずに、現実世界で、氣になる人に会ってみたり、尊敬する人に会ってみたり、することも本を読むことと同様に大切なことのように思います。
先日、ある本の中に、どんなに難しいという内容の本でも何週間も繰り返し読み続けることで、わかるようになるものだという内容のことだ書かれていました。以前までの和多志は、この場合、一旦保留して、他の本や現実の人と会った、り氣になる場所に出かけてみたりしているうちになんとなく腑に落ちる経験があったので、そうしていました。ただ、この考えを聞いて、そういう経験もしてみたいと思いました。確かに、理解できないということは、自分自身の中に、それを紐解く経験や体験や考えや価値観がないから、理解ができないのかもしれません。そのような、自分には理解できない領域を理解しようとする作業の積み重ねによって、人は成長するのかもしれません。「一見難しくて難解な本でも何回も何回も読むことで理解ができる。」実際にそういった経験をした人がいる、という事実があるだけで、どうやら自分にもできるかもしれないと思わせてもらえます。自意識過剰ではなく、単にポジティブなだけかもしれません。
和多志が摂食障害になって、克服する為に、最初に行った行動は、環境を変えて、摂食障害を克服した経験のある人に会いに行くということです。お医者さんには行きませんでした。というのも、摂食障害になったことのないお医者さんに悩みを相談させて頂いて、同情されて?されてるフリして、適当な薬出されて終わりで、その繰り返しだと思ってしまったからです。別にお医者さんを否定も肯定もしませんが、あくまで自分の主観です。実際に、「摂食障害を克服した経験のある人と会う」ということには、非常に大きな意味や意義があるのだと思います。お会いするだけで、自分も克服することができるかもしれないと思えて来たのです。1人で苦しんでいた渦中にいた時には、どうしていいかわからず、同じような日々の繰り返しで、変えたくても何も変わらない状況や現状に嫌氣がさし、更に自己嫌悪に陥っていました。そんな中、克服した人というのは、一筋の光でしかなかったです。やり方はわからないけれども、実際に克服されて人が目の前に存在している。ただ、その事実だけがどれだけ背中を押してくれたか、支えてくれたか。過程は今はわからないけれども、その存在にどれだけ救われたことか。そのような経験があってから、自分自身は、元摂食障害ということは積極的にアピールするようになりました。それは、摂食障害で今苦しんでいて死にそうな人にとっての、一筋の光になれるのなら、なりたいという想いからです。もちろん、摂食障害は特に女性に多いとされています。自分は男なので、相談や話を聞いて貰いにくいかもしれません。周りでも、摂食障害を実際に克服された女性も、何人も知っているので、少しでもお力になれたら、倖いでございます。
摂食障害に関わらず、どんな病氣も自分自身にしか治せないものだ、と和多志は本氣で思っています。
和多志が摂食障害の時にそのように考えることができた理由は、もしかしたら、自分自身の実体験があったからかもしれません。それは、「小麦を控えて花粉症を克服した」という人の話を聞いて、自分も小麦と牛乳を2年間徹底的に抜いてみました。すると、花粉症とアレルギー性鼻炎が克服されたのです。皆様は何を信じますか?和多志は目の前の人を信じます。信じたいです。信じる者は救われる?
彌榮ー
おはようございます。何だかんだ、寒さが続いていますね。本日もよく見ると雪のようなものが降っていますね。暖かくしてお過ごし下さい。
昨日の記事を読んでいたらもっと書きたくなって来たので、続きます。
結婚という制度はあくまでも制度であって、政治的な社会的な何かしらの意図があって定められたのかもしれません。人口を減らす為なのか、優勢遺伝を減らす為なのか、家族という概念をより狭いものにして、資本主義や個人主義と色を濃くする為なのか、はたまた、和多志のようなモテない男性を救う救済の為なのか、わかりません。このルールがあることによって、決してどんなに多くの女性からモテている男性でも、1人の女性としか一緒に居られないのです。また、このルールがあることによって、モテない男性にも、女性と結婚するチャンスがあるのかもしれません。一夫多妻制が長年続いていたようですが、この辺りはある程度裁量が与えられていても良い氣がします。
ところで、皆様はおじいちゃん、おばあちゃんが好きですか?和多志は大好きです。幼い頃から、実家に来てくれて一緒の時間を過ごせるだけで幸せでした。また、小學生以降に1人で動けるようになってからは、自分でおじいちゃん、おばあちゃんに会いに行ったりもしました。横浜の金沢八景からバスで15分の所に母方の祖父母が住んでいました。祖父が町内会長をしていたということもあって、一緒に町内を回ったり、イベントがたくさんあって楽しませて頂きました。また、山の中の畑を借りて自給自足の為に無農薬で農業をしていたので、その手伝いをしたり、おじいちゃんが育てたお野菜を食べるのが大好きでした。大人になってからは、中々会う時間がなく、最後に会ったのは、都内の病院にて入院している時でした。未だその時は生きていましたが、自分の中では死んだも同然のように思えて自然と涙が溢れて来ました。おじいちゃんの耳元で「有難う」とだけ伝えてその場を離れました。今思うと、もっとおじいちゃんと真剣に向き合って、彼が生涯を通じて経験したことなど、真剣な話をもっと聞きたかったと。目の前の生活の為の仕事に翻弄されていて、本当に大切なものが未だ何なのかわからなかった時期でした。もうあれから、6年が経ちました。本当に月日が過ぎ去るのは早いなーと思います。
お客様の中で、400年先祖代々で同じ場所に住んでいるという方がいました。この方は、おじいちゃんおばあちゃんのご両親とも一緒に生活していたようです。お料理やお味噌作りや生活のあらゆる智慧を受け継いでいたようです。そういうお話を聞くと、自分の曽祖父母に会ってみたくなりました。この方のように、何世代にも渡って同じ家に住むことが当たり前だった時期もあることを考えると、時代の変化を感じます。どちらが良い悪いではなく、そんな生活も経験したいなーと思いました。ただ、歴史は繰り返すという言葉があるように、氣がついたら昔のように大家族で一緒に暮らしていることもあり得るかもしれませんね。今の核家族化の動きは1950年以降アメリカによって普及されたような氣がします。どのような意図を持って、そうなったのかわかりませんが、ここまでを振り返ると、原点回帰した方が良い時期に来ているかもしれません。
社会に出ると、様々な方と知り合うと思います。もちろん、素敵な方も多くいます。家族の人よりも大切に思ってくれる方や愛を与えてくれる方など。時には我欲に溢れて欺いてくる方など。そのあらゆる経験は、必ずその人にとって必要な経験だと思います。だから起きているのだと思います。その体験や経験を通じて、何を思うのか、どう感じて、どう捉えるのか、その時の心の声を向き合うことは必要な過程な氣がします。ただ、思うことは親子という信頼や結びつきは切っても切れないものがありますし、ずっと続いていくものに思います。特に母親と子どもとの結びつきは特別なものを感じます。和多志は男性なので、自分が母親になって、そういった体験をすることは出来ませんが、母親との関係で息子視点ではありますが、大いに感じることは出来ています。
つい先日、自分の0-12歳の時のことを母親に訊いてみました。「母親にとって、自分はどんな存在だったか?和多志はどんな子どもだったか?」と。すると母親は「2人目の子どもが出来てとても嬉しくてしょうがない感じだった事はよく覚えています。達也が甘えん坊だったので、いつも和多志のそばに居て、兄のサッカーの応援の時も和多志の足の甲に座ってサッカーを見ていて可愛いなと思っていました。幼稚園の頃から、和多志が自転車で色々な所に連れ回していたせいか、いつも嫌がらずに付いて来てくれて嬉しいなーと思っていました。小學校に入る頃から、1人でも行動出来る子になって来たように思います。サッカーにも夢中になって1つ1つ真剣に取り組んで成果を上げていたように感じました。」読んでいて恥ずかしくなります。足の甲を椅子代わりにして、座っていたことは今でも覚えています。これが客観的なのかわかりませんが、脚色して良く表現して頂いているようにも思えました。この質問をしたのは、ある本で自分自身についてより知る為のワークとして紹介されていたので、知りたくなって尋ねてみました。和多志がこの話を聞いて思ったことは、非常に愛されていたということです。また、兄に対して母親の愛情を独り占めしていて、兄に我慢をさせてしまっていたかもしれない、ということを思いました。また、もしかしたら、父親に対しても母親を独り占めしていたと思われていたかもしれません。また、幼稚園の時の自転車の話は、嫌がらずに付いて行くも何も自分にその選択の余地があったのか、疑問に思いました。ただ、喜んで貰えたのなら、それは良かったです。
親も人間なので、出来ない所に目を向けるのではなく、出来る所や長所にもっと目を向けていきたいと思った出来事でした。何かを求めないで大丈夫です。ありのままで、在るが儘で。それをまるっと受け入れてくれる人が、きっと親なんだと思います。
彌榮ー
