信長の全国制覇を支えたのは、織田家家臣団や同盟軍だけではなかった。
信長の天下統一を現実にした決定的な戦力は、「天神」の協力であった。
既に当ブログではお馴染みのように、天神とは大陸から先進技術を持って日本に渡った来た土師氏の一族を指す。
菅原道真によって、朝廷を影で支える勢力として確立され、永く歴史の裏側でさまざまな厄災に立ち向かったのだった。
天神が信長に力を貸したのは、主に技術指導と経済運営の分野であった。
しかし、
「国難と一族の危機以外では自ら武力を行使せぬこと」
それが天神の憲法であったはずだ。
なぜ信長は天神と同盟を組むことができたのか?
若き日の秀吉が仲介したのではないか。
秀吉の出自は定かでなく、百姓の倅とか足軽の倅という認識が通説となっている。
しかし、近江の国日枝大社には秀吉は尾張日枝神社に仕える神人の出自だと匂わせる伝承が残っている。
「日吉丸」という幼名は、「日吉(ひえ)」につながる名前である。
また日枝大社の神職は、樹下(きのした)氏が務めていた。
尾張日枝神社において、神の使いは「神猿(みさる)」であるとされている。秀吉が「猿」と呼ばれたのは、あるいはそのせいであったかと思われる。
近江樹下氏から別れた分家が尾張日枝神社の神人となり、その一人が織田家に仕えたという想像はさほど無理とは思えない。
一方、信長はといえば、青年時代に山人との親交を結んでいた節がある。
麻縄を帯代わりに結び、腰から火打ち石を入れた袋を下げていたという。山を歩き、野に伏していた証であろう。
自分は山人とともに生きるという意思表示であったとも思われる。
信長の仕打ちとしてあまりにも有名な延暦寺焼き討ち。比叡山が信長にとって対抗勢力であったのは確かだが、なぜあそこまで容赦ない殺戮を行ったのか?
延暦寺が北野社や住吉大社、日枝大社などの天神勢力を弾圧していたからではないか。
比叡山焼き討ちでは山内にある日枝大社も大打撃を受けたが、秀吉が惜しみなく復興を支援したという。
これも、己の出自につながるからだと思えば合点がいく。
尾張日枝神社はオオナムチを祀る社である。すなわち天神の祖神を祀っている。
信長は天神とオオナムチの信者を守るという契約を結んだのだ。
だからこそ脇目も振らず京を目指した。比叡山を倒すために。
後世の史家は、信長は京に上って天下を取ったという。だが、それは結果論である。
始めから京にいた三好、松永はなぜ天下を取れなかったか?
上杉、武田、北条は、なぜ領国から動かなかったのか?
毛利に至っては、途中に邪魔するものなどなかったはずである。
京に上るなどという発想は、誰の脳裏にも存在しなかったからである。
足利将軍は既にあり、京にあっても没落していた。
上京=天下統一などという方程式は存在しない。
天神との約束を果たすため、信長は京に上った。だから官位には望みがなかったのだ。
信長に右大臣の役職が与えられたのは偶然ではない。それは、道真が生前与えられた最高の役職であった。
天神を率いて天皇家の復権に貢献した功により、朝廷は信長に右大臣の職を与えたのだ。
すなわち、この時点で信長は天神の長であった。
これはすべて想像の産物である。