■第五章:基経の罠
其れは宮中での事だった。
菅原家の先祖が野見宿禰であったという話になった。
其れは誰もが知る事であり、殊更に新奇な事でもなかったが、道真の学識を妬む輩は話題にして面白がった。
「式部少輔殿のご先祖は相撲がお強かったそうな」
「相撲勝負で領地が戴ける等、羨ましい話よ」
「相撲勝負で領地が戴ける等、羨ましい話よ」
そう言って密かに道真を物笑いの種にし、束の間溜飲を下げていた。
道真も承知の事であったが、聞き流していれば良いと考えていた。
「当代はこの通り見る影もございません。腕等ほれ、枯れ枝の様で。ははは……」
笑って済ませるのが常であった。
其の日も、それで済むと思っていたのだが、関白藤原基経が妙な事を言い出した。
「時に皆は、當麻蹴速をご存じか?」
「知りませいでか。道真殿のご先祖、野見宿禰に打ち負かされた相手でございましょう」
「うむ。其れであるが、近頃我が許に當麻蹴速麻呂と名乗る者が現れたのだ」
「知りませいでか。道真殿のご先祖、野見宿禰に打ち負かされた相手でございましょう」
「うむ。其れであるが、近頃我が許に當麻蹴速麻呂と名乗る者が現れたのだ」
基経が言うには、蹴速麻呂の一族は父祖伝来の地を追われて以来、漂泊の暮らしを余儀なくされた。
代々の苦労は想い出しても涙を誘う。
代々の苦労は想い出しても涙を誘う。
一族の宿願は野見宿禰の一族といま一度勝負し、當麻の土地を取り戻す事であった。
代々の男子は幼少より身を鍛え、技を磨いて時を待った。当代に至り、遂に相撲の秘奥に達したので都に上り、土師氏の裔である菅原氏に戦いを挑むと言うのだ。
言い掛かりも此の上ない。
大体、自称當麻蹴速麻呂が當麻蹴速の子孫である証拠等何処にもない。
元々が神話の世界の出来事なのだ。
元々が神話の世界の出来事なのだ。
流石に道真も、是を相手にする程お人好しではない。
「其れ程の強者であれば、身過ぎの道も数多ありましょう。そもそも何世も前の出来事。我と勝負せずとも、身の立つ術を探されるが良かろうと存ずる」
至極尤もな断りを入れた。
ところが、基経は引き下がらなかった。
「其の通りを我も申した。恨みは忘れよとな。ところが、何処からか知らず、この話が主上のお耳に入ってしもうたのだ」
「帝に?」
「うむ。主上はお情け豊かな君にあらせられる。一言、『哀れなり』と思し召されてな」
「帝に?」
「うむ。主上はお情け豊かな君にあらせられる。一言、『哀れなり』と思し召されてな」
そもそも一度の勝負で當麻から野見に領地を明け渡させたのは不公平である。當麻側にも失地挽回の機会を与えるべきであろうと。
そう仰られたと言うのである。
関白太政大臣たる基経が言う事である。
其れは真の事ですかと、疑いを挟む事は出来なかった。
其れは真の事ですかと、疑いを挟む事は出来なかった。
「ついては道真殿。そなたに相撲を取れとは申さぬ。誰か家中から相撲勝負に応じる者を出せぬか。其れが出来ぬとあれば、屋敷を明け渡すか、先祖代々分の詫びを入れるか……。」
「何れにせよ、筋は通さねばなるまい」
基経の魂胆が見えた。
日頃歯に衣着せぬ言動で己に逆らう道真に、無理難題を吹っ掛けて痛い目を見せようと言うのである。
日頃歯に衣着せぬ言動で己に逆らう道真に、無理難題を吹っ掛けて痛い目を見せようと言うのである。
――其れ程に吾が煙たいか。
道真の内心に苦い物が広がった。
基経が即位後間もない宇多天皇と争いを起こした際、我意を通す基経を諫めた事のある道真だった。
ともあれ、面には表さず、道真は基経に目礼した。
「是は難題。当家に相撲上手の者等おりましたかどうか……。されど帝の思し召しありと仰られれば、臣下たる身としてはお受けするしかございますまい」
「ほう? 勝負を受けると申すか?」
「はい。されど人選びに時を戴きたく存じます。永くとは申さず。七日のご猶予を願います」
「はい。されど人選びに時を戴きたく存じます。永くとは申さず。七日のご猶予を願います」
基経は、まさか道真が勝負を受けるとは思っていなかった。
下人同然の蹴速麻呂の前に、這い蹲らせて詫びを入れさせようと思っていただけであった。
下人同然の蹴速麻呂の前に、這い蹲らせて詫びを入れさせようと思っていただけであった。
――愚かな事よ。勝負すると言うならそれはそれで結構。
七日の時を稼いで有耶無耶にする積りか?
そうはさせるかと、更に攻撃心を強めていた。
そうはさせるかと、更に攻撃心を強めていた。
「宜しかろう。其れでは今日より七日の後、相撲勝負を執り行う。所は吾が屋敷内。人目を憚る事もあろうからな。ふふふ」
話はそう決まった。