この本、読むのに1ヶ月弱かかった。。。。
『暇と退屈の倫理学』
【要旨】
・我々はハイデッガーの退屈の第二形式=「暇ではないが退屈」=「退屈と気晴らしが入り交じった状況」の中にいる。
・そしてたまに何者かによって「とりさらわ」れて、退屈の第三形式(=第一形式)の奴隷となる。
・すなわち、人間、時々、動物。
・我々は「環世界間移動能力」に長けており、一つの環世界に留まっていることができない。
・「消費者」ではなく「浪費家」になれ。「人間的」な「贅沢」を選択せよ。(=3つの結論のうちの1つ)
【感想】
人間の退屈の起源を「定住革命」で説明・解釈したり、ウサギ狩りをする者はウサギ自体がほしいのではないというパスカルの喩えを引用したり、環世界の話をダニやらミツバチやらを出して説明したり、読み物としてはかなり面白く、分厚い本ではあるが最後まで読み遂げたい気分に駆られる良本。人間にとっての「一瞬」とは18分の1秒、など何かと興味を引く知識も盛り込まれていて学ぶことは多いと感じた。
ただ、この分厚い本の最後に向かって、過度な期待を持って突き進んで行くと最後「あれ?(結局どうすりゃ良いってこと?)」という気持ちになる。名だたる哲学者に対し「やんわり論破」を繰り返して話を進める著者に対して読者はその都度納得させられる。しかしそれ故に最後には筆者による具体的なライフスタイルの提示(この時代で言う誰が退屈とうまく付き合えているのか等)で当然締めくくられることを期待してしまうが、そこはクリアにならずに終わる。読み方が浅い?
動物的な「消費」は退屈を増幅させ悪循環をもたらすが、人間的な「浪費=贅沢」は気晴らしとして作用する。だから贅沢せよ。作者の言わんとしていることはなんとなく理解できる。
「パンを食らう」のみならず、「バラを飾る」こと。これは作者にとって「消費」ではなく「浪費」なのであろうが、では、バラを飾ることと、ルイヴィトンの財布を持つことはどう違うのか?AKB48の同じCDを何枚も買うことが「動物的」であり「奴隷的」であることは分かるが・・・「バラを飾る」ことも「消費」じゃないのか?ラーメン行脚して食べる前にいちいち撮影するのは「奴隷的」?じゃあ銀座の寿司屋は食べログで調べたらどっち?ミシュランが付いているのを知った上で行く場合と、行ってみたらミシュラン付きの店だった場合とで違う?その店に10年前から通っていたら・・・?
環世界の論点において動物と人間との切り分けを否定した筆者が、どうやってこれら消費と浪費を切り分けられるのか。同じじゃね?そのあたりの具体的説明がなく釈然としない。これでは「贅沢」したくてもできない。この本を読んだ方、もしこの点、ご意見ありましたら勉強させてください。
読み進めていく中で、個人的には大学の頃に受けた「複雑性の社会学」という授業を思い出した。熱力学?の自己組織性の概念を社会学に応用したモデルで、すごく面白かったので今でもわずかながら覚えている。人間はそこそこ安定、そこそこ不安定のアトラクタ上にいるが、エネルギーがチャージされることにより、別のアトラクタに相転移を起こす。この著者の退屈行ったり来たり論はその授業の内容を彷彿とさせる。(←だからなんだよ)
というわけで、上記の点について、ぜひ、続編に期待します。
『暇と退屈の倫理学』
【要旨】
・我々はハイデッガーの退屈の第二形式=「暇ではないが退屈」=「退屈と気晴らしが入り交じった状況」の中にいる。
・そしてたまに何者かによって「とりさらわ」れて、退屈の第三形式(=第一形式)の奴隷となる。
・すなわち、人間、時々、動物。
・我々は「環世界間移動能力」に長けており、一つの環世界に留まっていることができない。
・「消費者」ではなく「浪費家」になれ。「人間的」な「贅沢」を選択せよ。(=3つの結論のうちの1つ)
【感想】
人間の退屈の起源を「定住革命」で説明・解釈したり、ウサギ狩りをする者はウサギ自体がほしいのではないというパスカルの喩えを引用したり、環世界の話をダニやらミツバチやらを出して説明したり、読み物としてはかなり面白く、分厚い本ではあるが最後まで読み遂げたい気分に駆られる良本。人間にとっての「一瞬」とは18分の1秒、など何かと興味を引く知識も盛り込まれていて学ぶことは多いと感じた。
ただ、この分厚い本の最後に向かって、過度な期待を持って突き進んで行くと最後「あれ?(結局どうすりゃ良いってこと?)」という気持ちになる。名だたる哲学者に対し「やんわり論破」を繰り返して話を進める著者に対して読者はその都度納得させられる。しかしそれ故に最後には筆者による具体的なライフスタイルの提示(この時代で言う誰が退屈とうまく付き合えているのか等)で当然締めくくられることを期待してしまうが、そこはクリアにならずに終わる。読み方が浅い?
動物的な「消費」は退屈を増幅させ悪循環をもたらすが、人間的な「浪費=贅沢」は気晴らしとして作用する。だから贅沢せよ。作者の言わんとしていることはなんとなく理解できる。
「パンを食らう」のみならず、「バラを飾る」こと。これは作者にとって「消費」ではなく「浪費」なのであろうが、では、バラを飾ることと、ルイヴィトンの財布を持つことはどう違うのか?AKB48の同じCDを何枚も買うことが「動物的」であり「奴隷的」であることは分かるが・・・「バラを飾る」ことも「消費」じゃないのか?ラーメン行脚して食べる前にいちいち撮影するのは「奴隷的」?じゃあ銀座の寿司屋は食べログで調べたらどっち?ミシュランが付いているのを知った上で行く場合と、行ってみたらミシュラン付きの店だった場合とで違う?その店に10年前から通っていたら・・・?
環世界の論点において動物と人間との切り分けを否定した筆者が、どうやってこれら消費と浪費を切り分けられるのか。同じじゃね?そのあたりの具体的説明がなく釈然としない。これでは「贅沢」したくてもできない。この本を読んだ方、もしこの点、ご意見ありましたら勉強させてください。
読み進めていく中で、個人的には大学の頃に受けた「複雑性の社会学」という授業を思い出した。熱力学?の自己組織性の概念を社会学に応用したモデルで、すごく面白かったので今でもわずかながら覚えている。人間はそこそこ安定、そこそこ不安定のアトラクタ上にいるが、エネルギーがチャージされることにより、別のアトラクタに相転移を起こす。この著者の退屈行ったり来たり論はその授業の内容を彷彿とさせる。(←だからなんだよ)
というわけで、上記の点について、ぜひ、続編に期待します。