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本書では、2010年を起点として、基本的には時系列順に話を進めていく。執筆している2014年までの5年間の体験と思考についてまとめることになる。
2010年を起点としたのは、この年から「現在の私」になったと思うからである。ここでいう「現在の私」というのは、執筆をする2014年の私を意味する。
この節では、この「現在の私」ということの意味について具体的に説明することにする。
実は「現在の私」には2つの意味があるのだが、1つはこの年から耳鳴りが始まったという意味である。
現在私は耳鳴りを抱えている。時に強く鳴り響く「ピー」という音は、精神的負担になりうるものである。耳鳴りは狭い空間にいる時発生しやすい。一番ひどくなるのは布団を頭からかぶったときである。したがって布団の中は私にとって必ずしも安息の場所ではない。
このような不幸な状態になったのが2010年である。耳鳴りは自然発生的に生じたものではなく、明らかに自ら招いた症状だった。
2010年、私は周りの人がやたらとする咳に強い苦痛を感じていた。私はそれらの咳を引き起こしているのが他ならぬ自分自身だと思っていたが、その点については後でふれることにする。
咳の音を聞くたびわきあがる憎悪の念は、精神状態にも大きな悪影響を与えていた。「心はプルシアンブルー」を前提とすれば、山梨学院の選手の走りにも悪影響を及ぼしている筈だった。
日々の生活の中で、どこにいても周りから咳の音が聞こえてきて始終苦しめられる――その状況は、箱根駅伝にたとえるならば沿道から石を投げつけられているようなものだった。
(なんで咳にこんなに苦しめられなきゃならないんだ)
その怒りを、私はなんと自分自身の耳にぶつける。
―――耳が聞こえなくなればこの苦しみから逃れられるという考えのもと、意図的な失聴をめざして、耳の奥に針をつきさしたり、ティッシュや砂を詰め込んでみたり、火のついたマッチをさしこんだりしてみた。
そうした行為で本当に失聴できると思っていたのか、自分でもよく分からない。咳への怒りがうんだ狂気の行動だったように思う。あまりに強い怒りが体を突き動かして、こうした行為にかりたてられたのだった。
結局、これらの行為で失聴することはできなかった。代わりに始まったのが耳鳴りだった。耳鳴りの発生に気づいてこれらの行為をストップしたが、時すでに遅し、耳鳴りはやまない状態になっていた―――
私はこの時のことを何度悔やんだか分からない。耳鳴りに苦痛を感じるたび、この時のことを思い出し、自らの愚かさを呪うことになる。
今の私ならこのようなことはしない。別の方法でストレス発散する筈である。この別のストレス発散法がどのようなものであるかについては、翌2011年の部分で述べることになる。
さてそもそもの原因である周りの人がやたらと咳をする現象を経験しているのは私一人に限らない。世の中には、自分が周りの咳を引き起こしていると考え、悩んでいる人が少なからずいる。インターネットでPATMと入力して検索すると、そのような人たちについて知ることができる。
ウェブ上の「PATM まとめ:トップページ」にはPATMとはPeople Allergic to Meの略称であり、周囲に咳・くしゃみ・洟すすり等アレルギーの様な症状を引き起こす病気・体質のことと書かれている。
しかし本書ではPATMを次のように定義する。
(PATM)
自らが周りの咳を引き起こしていると信じている状態を本書ではPATMとよぶことにする。実際に因果関係があるかどうかは、ここでは問題としない。
(咳)
本書では咳という語の意味に通常の咳に加え、洟すすりも含めることにする。これは単に字数の短縮のためであり、それ以上の意味はない。
この問題に関しては、PATMの人と周りの咳の間に因果関係があるのかどうか疑う立場もありうる。そうした立場をとれば、この問題は単なる精神的疾患であるということになる。
本書のように定義すれば、そうした立場の人にも「PATMを発症する」「PATMに苦しむ」といった表現を違和感なく読んでいただけると考え上記の定義にした。
インターネットの書き込みを見れば、PATMが大きな精神的苦痛をもたらすことは容易に察することができる。しかし、その苦しみの大きさがどれほどのものか分かるのは、恐らく経験者だけである。私自身、PATMを発症する前に、このようなことを話として聞かされてもいまひとつピンとこなかったに違いない。
そのことを思えば、読者が本書にしばしば登場する「咳に対する極度の嫌悪感」に共感できなかったとしても致し方ないように感じられる。しかし、本書の誕生はPATMなくしてありえなかった。PATMがうんだ物語といっても過言でないほどである。
その意味で、読者がPATMが生み出す苦痛の大きさに思いをはせていただければ、著者としてはありがたく思う。
PATMに関しては、「周りの人は悪意で咳をしているわけではない。それを悪意と受け取るのは被害妄想だ」という指摘がありえる。しかし、この指摘は誤解に基づいているといわざるを得ない。PATMに苦しむ人は、誰も周りが悪意で咳をしているなどとは思っていない。また、「周りの咳とあなたの存在に因果関係はない。因果関係があると考えるのは思い込みに過ぎない」という指摘も考えられる。確かに、私は自分自身の存在と周りの咳の因果関係を立証することはできない。しかし日々の経験から、少なからぬ咳が自分によって引き起こされていると考えている。この認識は他のPATMの人たちとも共通している。
私がPATMを発症したのは2006年である。当初はそれをさほど苦痛にしていたわけではなかった。06~07年頃は苦痛よりも「なんでみんなこんなに咳をするんだろう」という疑問の方が大きかった。08年頃から鬱陶しさを感じるようになり、2010年になって耐えがたい苦痛と強い憎しみを感じるようになったのだった。
このことが2010年に「現在の私」になったということの2番目の意味である。
さて、ここで1つの疑問がうまれる。
(私はなぜ、2010年になって咳を著しく苦にするようになったのだろうか?)
この疑問は2010年当時から胸のうちにあったものだった。
このような問いについて考える際、私は常に明確な答えの存在を前提として考えを進める。あるいは世の中には答えの存在しない問いなどいくらでもあるのかもしれない。この場合も「たまたま2010年に咳に耐えられなくなった」と考えることも不可能ではない。しかし偶然不信派の勢力が強い私の中では、答えの存在を前提とするスタイルが定着している。
咳に関するこの問いに対して、2010年から考えていたのは次のことだった。
(自叙伝を上手に書けたから咳に苦しんでいるのではないのか)
自叙伝を最初に書いた2006年は、PATMを発症した年だった。その後も自叙伝を幾度も書き直し、その出来に対する満足感が増すごとに、咳を苦にする気持ちが強まっていった。そして本書の冒頭にも書いた2010年年初の自叙伝執筆で大きな満足感を味わった後、咳を耐えがたく感じるようになっていた。
こうした時期的な一致が自叙伝原因説の最大の論拠である。しいて付け加えれば、自叙伝を書くごとに内面観察能力が向上し、感性が鋭くなったことで咳に耐えられなくなったというような解釈もできる。
―――この自叙伝原因説の存在もあって、私はもう自叙伝を書くことはないだろう、と考えていた。しかし、結局2014年になって本書を執筆している。文章を書く歓びは抗いがたいものである―――
この自叙伝原因説に加えて、後に考えるようになったのが地デジ原因説である。地上アナログ放送が終了し、地上デジタル放送に完全移行したのは翌2011年7月のことだった。地デジ完全移行に向けての、地デジ普及率の推移を調べてみると、面白いことに私のPATM苦の推移と一致する。偶然不信派はこの点に関連性を見出し、地デジ原因説を提唱した。
読者はこの地デジ原因説を奇異に感じるかもしれない。確かに五十嵐久敏個人の変化と社会的な変化を結びつけて考えるのは無理があるようにも思える。
しかし、我が偶然不信派がこのような仮説を提唱するのはさほど珍しいことではない。「心はプルシアンブルー」を前提とする私の世界観では、地デジ移行が精神に影響をおよぼすこともありうる話なのである。
このように2010年の変化の理由については2つの仮説があるが、どちらも確信がもてるようなものではない。何はともあれ、咳に耐えられなくなり、失聴願望がうみだした耳鳴りを抱えるようになったところから、本書の物語はスタートする。