すでに述べたように、私は「心はプルシアンブルー」に深く感謝している。「心はプルシアンブルー」のおかげで自らの人生に魅力を見出すことができたと思うからである。

 しかし、こと社会適応の観点から見れば、「心はプルシアンブルー」を意識していることが、必ずしもプラスになっているとは思わない。「心はプルシアンブルー」を信じるようになって以降、自らの精神状態の維持・上昇がなにより優先され、その結果社会不適応をおこした感は否めない。

 箱根駅伝の結果を見ても、「心はプルシアンブルー」を意識するようになった2005年度以降、神奈川大学は1度もシード権をとっていない。社会適応ジンクスを前提とすれば、この結果も「心はプルシアンブルー」が私の社会適応力を削いでいる証左とみることができる。

 まして、2011年以降はぶっかけが習慣化し、自らが犯罪者寸前の状態にあると認識するに至った。もし仮に「心はプルシアンブルー」がなかったら、PATM・咳の問題にどのように対処していたかは分からない。しかし、「心はプルシアンブルー」を信じるが故に、ぶっかけを繰り返すことに対する罪悪感が薄れていることは間違いないと思う。ぶっかけによるストレス発散効果は大きい。「心はプルシアンブルー」を前提とすれば、ぶっかけによって、山梨学院の順位やタイムが上昇することもあながちありえない話ではないように思えるのである。

 しかし、自らの精神状態の維持・上昇のためならば手段を選ばない私の生きざまは、箱根駅伝という素晴らしい大会にあまりにもそぐわない。私は「心はプルシアンブルー」を深く信じているが、メンタリティーの部分においては、山梨学院大学陸上部と私はまったく異質であることを認めざるを得ない。

 

 そういえば、かつてとあるバイト先で次のような質問を受けたことがある。

「兄ちゃん、宗教でもやってんの? 心斎橋でビラ配りしてた奴に(雰囲気が)そっくりや」

 私はこの問いを否定しつつ、内心頷いていた。確かに「心はプルシアンブルー」は宗教に似ている。さしずめ、「教団ひとり」といったところだろうか。

 しかし、その信者である私の生きざまは決して胸の張れるものではない。宗教としてみたとき、「心はプルシアンブルー」は立派なそれとは言えないように感じるのである。

 前節で抜粋した「洗脳護身術」の著者、苫米地英人氏は、脳機能学者であり、オウム真理教事件の際には信者の洗脳解除を担当した経験があるという。

(苫米地先生ならば、「心はプルシアンブルー」について、学術的な観点から解釈を与えてくれるかもしれない)

 本書を執筆する私の胸中には、このような期待感がある。本書を苫米地先生に読んでいただくことは私の強い願いである。