「近代文学における身体――「舞姫」を中心に――」『文学における身体』において、
「大導寺信輔の半生――或精神的風景画――」の中で、龍之介の分身とみなすことができる信輔は父と散歩をしている際に水死体を見つける場面が描かれている。
「或朝焼けの消えかかった朝、父と彼とはいつものように百本杭へ散歩に行った。百本杭は大川の河岸でも特に釣り師の多い場所だった。しかしその朝は見渡した所、一人も釣り師は見えなかった。広い河岸には石垣の間に舟虫の動いているばかりだった。彼は父に今朝に限って釣り師の見えぬ訣を尋ねようとした。が、まだ口を開かぬうちに忽ちその答を発見した。朝焼けの揺らめいた川波には坊主頭の死骸が一人、磯臭い水草や五味のからんだ乱杭の間に漂っていた。――彼は未だにありありとこの朝の百本杭を覚えている。三十年前の本所は感じ易い信輔の心に無数の追憶的風景画を残した。けれどもこの朝の百本杭は――この一枚の風景画は同時に又本所の町々の投げた精神的陰影の全部だった。」
百本杭のあいだに漂う水死体は、「精神的陰影の全部」とされるほどに重きを置かれている。これが意味するものはなんだろうか。
身体は肉体の概念よりも広い。それは関係化された肉体なのであって、たんなる「物」を超える要素をもつ。その要素とは、主客が無限に交代する両義性である。両義性が失調したとき、身体は「物」へと縮減されてしまう。係累され封じられた身体。
身体の闖入
「尾生の信」
尾生は川の中洲で、女の来るのを待っている。しかし、結局女は来ず、尾生は溺れて死んでしまう。
見上げると、高い石の橋欄には、蔦蘿が半ば這いかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の白衣の裾が、鮮かな入日に照らされながら、悠々と風に吹かれて行く。
尾生は「タクシードライバー」のトラヴィスに似ている。
勝手に?女を信じて、独りよがりに行動し、自滅してしまう。愚かで身勝手で迷惑だが、彼には彼の行動規範があるし、彼の美意識がある。
尾生の眼が、ぎょろぎょろと、無遠慮に、左右に動いて、道行く人を追っているのがわかる。
彼の眼には、ネオンライトが映りこんでいる。
雨はよい。この世の汚れを洗い流してくれるから。
映画を観るように、橋欄を通して、世界を見せ付けられる。
尾生のそっとした口笛、空元気と、なんでもないような様子の演出。
橋の下の黄泥の洲は、二坪ばかりの広さを剰して、すぐに水と続いている。水際の蘆の間には、大方蟹の棲家であろう、いくつも円い穴があって、そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞えた。
円い穴のなかの蟹、波が当たる度にたぶりというかすかな音が聞こえる穴の中の蟹。
待つ人、佇立する人、待ちぼうけで暇を持て余した人、情けない人。
寂しさを、街灯に照らされて伸びる影の中ににじませている人。
しんしんとした静かさと寒さが降り積もっていくのを、誰よりも鋭敏に気がついている人。
彼の目に映る街路は、過去の情景をそこに浮かべている。
尾生は険しく眉をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早に歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上って来る。同時にまた川から立昇る藻の匂や水の匂も、冷たく肌にまつわり出した。見上げると、もう橋の上には鮮かな入日の光が消えて、ただ、石の橋欄ばかりが、ほのかに青んだ暮方の空を、黒々と正しく切り抜いている。が、女は未だに来ない。
尾生はとうとう立ちすくんだ。
はじめ尾生は少しずつ、しかし着実に上ってくる水から逃れようとしているようにみえる。しかし、藻や水の匂いとしての不吉なる未来の予兆に、まつわられ始めた時に、それが急変する。あの懐かしく清涼なる鮮やかな入日の光が消えるとともに、もはやそこには現実を超え出るような幻想が投影されることもなく、ほのかに青んだ暮方の空を黒々と正しく切り抜くばかりとなった石の橋欄を眺めた尾生は、ついに、立ちすくむのである。
腹を浸した水の上には、とうに蒼茫たる暮色が立ち罩めて、遠近に茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした靄の中から送って来る。と、尾生の鼻を掠めて、鱸らしい魚が一匹、ひらりと白い腹を飜した。その魚の躍った空にも、疎ながらもう星の光が見えて、蔦蘿のからんだ橋欄の形さえ、いち早い宵暗の中に紛れている。
入日の光が消えたのちには、蒼茫たる暮色が立ち込めるばかりである。もはや、そこに現実変革の可能性を、女のやってくる可能性を映し出すべき橋欄の形という枠組みさえ、紛れて沈んでしまう。空と川の水とが互いに溶け合って違いがわからなくなってしまう。
夜半、月の光が一川の蘆と柳とに溢れた時、川の水と微風とは静に囁き交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思い憧がれたせいかも知れない。ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の匂や藻の匂が音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……
それから幾千年かを隔てた後、この魂は無数の流転を閲して、また生を人間に託さなければならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、何か来たるべき不可思議なものばかりを待っている。ちょうどあの尾生が薄暮の橋の下で、永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。
ここで、肉体と魂とが分たれる。魂の方は、夢見がちな生活を送りながら、何一つ意味のある仕事が出来ないでいる。海の方に流されていった肉体、その腐乱した水死体と、うらうらと高く天心の月の光に焦がれて昇っていった夢見がちなる崇高な魂。