日本は再軍備すべきなのか
抜き足差し足で再軍備すべきなのか
おおっぴらに憲法改正して再軍備すべきなのか
平和主義は現実的でないといわれるがそうなのか
1
ここでいう現実とはなにか
第一に、所与性である
現実はあたえられたものであると共につくるものだ
しかし、日本では、前者にばかり力点がおかれる傾向がある
既成事実と置き換えられる使い方しかしない人が多い
だから、そういう「現実認識」は諦めに変わる
「現実だからしかたがない」となる
動かせない過去としての現実ばかり捉えられる
現実的たれとは既成事実に屈服せよということにほかなりません
動きの取れない所与性がわたしたちの観念に重くのしかかり自由な想像と行動を圧殺する
しかたなくさせている圧力が変じれば現実も変わる
第二は一次元性である
いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑とし矛盾した様々の動向によって立体的に構成されている
しかし現実の多元的構造は「現実を直視せよ」とか「現実的基盤に立て」とかいって叱咤される場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一側面ばかりが強調される
戦時中のように、マスコミが多面的現実のうちから一つの面だけを唯一の「現実」であるかのように報道する場合には、国民は目隠しされた馬車馬のようにひとすじの「現実」しか視界に入ってこないために、局面の転換が「突然変異」に映ずるのも無理はない
「現実的たれ」というとき、ひとはすでに現実のうちのある面を好ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断にたって現実の一面を選択している
第三は、時の支配権力が向く方向である
反対派の選択するほうは容易に「観念的」「非現実的」のレッテルが貼られる
われわれのあいだに巣食う事大主義と権威主義が遺憾なく露呈されている
たしかに、権力に対する民衆のコントロール(反対ではない)が弱ければ当然、権力者はのぞむほうにどんどん国家をひっぱっていけるので、支配者の選択が他の動向を圧倒して唯一の現実にまで自らを高めうる可能性が大きいといわなければならない
昔から長いものに巻かれてきた日本の場合には、とくに支配層的現実即ち現実一般とみなされやすいことは留意すべきである
西欧において、軍備化をすすめる政府の動向ばかり報道されているが、民衆の動きは異なっている
西欧世界が滔々として再軍備に向っているという「現実」のみが焼き付けられ、わが国もバスに乗り遅れるなという空気をいよいよ高めてしまう
民衆のあいだの動向は権力者の側ほどに組織化されておらず必ずしもマスコミの軌道に乗らないから表面的には派手に見えない
しかし少し長い目で見れば、現実を動かす最終の力がそこにあることは歴史の常識である
ここでも問題は「太く短い」現実と「細く長い」現実といずれを相対的に重視するかという選択に帰着する
私たちの言論界に横行している「現実」観もきわめて特殊の意味と色彩を持ったものであることがわかる
こうした現実観の構造が無批判に維持されているかぎり、過去においてと同じく将来においてもわたしたちの自発的な思考と行動の前にたちふさがりそれを押しつぶす契機としてしか作用しない
そしてアンデルセンの童話の少女のように「現実」という赤い靴をはかされた国民はじぶんでじぶんを制御できないままに死への舞踏を続けるほかなくなる
わたしたちは観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真っ向から挑戦しようではないか
そして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではないか
こうした拒絶がたとえひとつひとつはどんなにささやかでも、それだけ私たちの選択する現実をより推進し、より強力にする
これを信じない者は人間の歴史を信じない者である
2
選択の問題、潜在的な力の拮抗のひとつが支配的に変わっていくという動的な過程について
押し流されていく、そういうとき具体的にどうすればいいのか
すでにほぼ負けが決まった可能性の選択の問題にかまけて、他のまだやわらかい選択の可能性が生きているほうを犠牲にしてしまうのではダメである
→ある種の蝶は生まれたときではなく、大人になるときに性決定をするものがあるそうである
可能性の芸術
どんどん新しいモンダイにばかり気をとられて重心が引きずられていくのも間違い
問題提出のイ二シアチブを支配権力に握られて鼻面を引き回されるのがおち
ある問題が片付いたことがらであるかどうかは、はっきりけじめをつけられるものではない
問題は連続して、関係して存在している
大事なことは、以前の争点をわすれないでむしろそれを新しい局面の中で不断に具体化してやることだ
その基本を忘れると、気づいたときにはじぶんの本来の立場からずっと離れたところにいる、なんてことになる
知識人特有の弱点はそのままだけど知識があることだ
なまじ理論を持っているから、それに沿わない現実の進展を見落としたり、合理化して正当化する理屈をこしらえて良心を満足させてしまう癖がある
既成事実への屈服が屈服として意識されているうちはまだいい。現実と自分の意識との間の緊張はつづいているからね
気の弱い知識人はこの緊張に耐えかねて、自分の側からの歩みよりによってギャップを埋めようとする
そこにお手の物の思想や学問が動員される
果てしない自己欺瞞の力が屈服を屈服とさせずに自分の立場の「発展」と考えさせ、昨日までの自己とスムーズに接続される
私たちは問題意識においてあくまで冷静かつ執拗であるべきで、かりにも事態の急テンポに眩惑されて思想的な「先物買い」になってはならない
再軍備の問題もまた結局国民自身が決める問題である、というもっともな議論を煙幕として自分の意見を韜晦しようという学者や政治家がいる
現在持論を表明するのは都合が悪いので、世論がそちらによってくるのを待とう、または、積極的に世論をそちらへと誘導してからにしようという戦術派がいる
形勢を観望して大勢の決まるほうに就こうという文字通りの日和見派もいる
しかし、いずれにせよフェアーに国民の判断を待つ条件が整わなくてはならない
一、通信、報道のリソースが偏らないこと
二、異なった意見が公平に国民の前に紹介されること
三、以上の条件の成立を阻む、または阻む恐れのある法令の存在しないこと
いやしくも国民の判断をまとうなんて主張する人であれば、必ず、上のような条件を成立させるよう声を大にして要求すべき道義的責任を感じるはずだ。
もし彼がそうした条件の有無や程度については看過しまたは無関心のまま手放しに国民の判断を云々するなら、言論のフェアプレーによる争いの成立を阻んでいる状況となんら闘うことなくただ世論や国民の判断をかつぎだしてくるなら、私たちはそういつやつの議論に誠実さを認めることが出来ない
そういうやつは何千万人の国民の生死に関する重大な問題についても一番高いところからの傍観者的姿勢を崩さない、むしろそうしたジェスチュアのうちに叡智を誇ろうとする偽賢人か、または現在のマスコミにおいてフェアプレーの基盤が欠如していることを承知の上で逆にそれを利用して儲けようとする底意をもった政治屋か、いずれかである
3
自分の言論に責任を持ちましょう
変説改論にはそれだけの内面的な必然性がなければならず、またそれについてハッキリした説明があるべきです
ずるずるべったりの転向や三百代言は一番卑劣です
冷戦を前提した「平和憲法」の画期的意味
→ではポスト冷戦において平和憲法は有効か