誰と付き合うかを強制するというのは一般に、きわめて馬鹿げている | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

直接言うと喧嘩になるので先にチラ裏としてここに書いてみるけど


誰と付き合うのか(付き合わないのか)ということを強制するというのは一般に、きわめて馬鹿げていると思う

それはサークルでもセクトでもなんでもおなじだ

(ぼくは複数の団体を想像しながら書いている)


動機的評価と結果的評価というものがある

それぞれ動機のよしあしと結果のよしあしで判断する方法だ

このうち政治的価値というのは結果的評価のほうがなじむ

どんなに邪悪な人間が取り組んでいたとしても、結果的によいことであればそれは肯定される

たとえば、連続殺人鬼がゴミ拾いしたらそれは正しい


動機的評価というのは、結果如何に関わらず、動機がよいものであれば肯定しなければならないという考え方のことだ

たとえば、あなたがいま盲腸炎を発症したとして、ぼくはあなたのことが気の毒に思う

かわいそうだからなんとかしてあげたいという「正しい」動機をもつ

だから、ぼくがあなたの腹をかっさばいて治そうとすることは(結果にかかわらず)動機的評価上は「ただしい」ことになる


人を見て、行為を見ないことは馬鹿げている

過去にどんなことをした人間であってもそんなのどうでもよい

今日太陽が昇ったことは明日も太陽が昇ることをなんら保証しない

帰納的推論は、誤謬である

愚者は経験に学ぶ

罪を憎んで人を憎まずである