新しいものをはじめるのって、なんでほかのことではなくてそれをわざわざやるのかを説明できないはずです。
というのはなんでもいいのですけれど、ある分野のメリットやデメリットについて説明するにはそれについて習熟していなければならないにもかかわらず、わたしたちはまさにそれがなんであるかわからないものを選ぼうとするからです。
たとえばぼくがいまカバディサークルに入ろうとするとして、なんでカバディサークルなのか、かくれんぼサークルではだめだったのか。
それってさいごまでじゅうぶんに説明しきることができない。
だから、情報量の多寡は決断とは無関係です(半分うそです)。
この問題がいちばんクリアに前景化するのはテニスサークルにはいろうとするときじゃないでしょうか。
テニサーなんて掃いて捨てるほどあるのであって、べつにどれでもいいじゃん。
これはもう、たとえば縁というほかないです。
なぜなんでしょうね。
成長へと駆り立てられているというのはきっとこういうことなんだな。
ぼくは世の中なんてくそくらえとおもっている。
でも、「真面目」だな。
うん。
ぼくが真面目な人間になってみてもいいとおもうんだよ。
ぼくにはあまり時間がない。
がんばろう。
なんでもやってやろう。
うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。
でもあと一度だけやってみようとおもう。
大学生活は一瞬だという。
でも、人生もまた一瞬なんだ。
先生は一瞬が一生だという。
生々起滅。
あらゆる瞬間が全体である。
ぼくははじめて二浪を悔やんだ。
もっと長い時間があれば!
だけれど、どれだけの猶予があってもおなじことだろうとおもうし、また、二浪しなければぼくはいまここに立っていなかったろうし、また先輩のことを好きになることもなかったかもしれない。
それはだれにも確言できない。
どころか、まさにいまみているこうした光景の全てがあるいは春の夢にすぎないのかもしれない。
すべて錯覚なのかもしれない。
でも、それでもいいんじゃないだろうか。
情報量の多寡は決断とは無関係である。
決断はいつだって、結局最後の一拍は、決死の跳躍であるほかない。
きっとうまくいけばいいんだけれど。