エシャレット | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ねむたい。

物は試しとオールに参加してみる。

ぼくはお酒はけっこう強い。

それから土気合宿のおかげで徹夜耐性も養われているので大丈夫だった。

そうしたあつまりにおいて完徹するとどういう利点があるかといえばそれは集まりの通時的な全体像が見えてくることだとおもう。

学校の精勤とおなじでとりあえず全部見ると俯瞰的視座が得られるのである。


ねむたいと人間のパフォーマンスが低下する。

インプットはできるけれどもアウトプットが困難になる。

なぜか。

アウトプットには余裕が必要である。

うまく説明が出来ないのだけれど身体の、精神の運用にはある種の「揺らぎ」が必要なのである。

なんていうんだろう。

えっと、そうだな。

オリジナリティ。

いかにもどこかで誰かが話しているような言葉、つまらない言葉。

そんなものをきいても仕方ないなあとひとはおもう。

そういう言葉は話したところできいてもらえない。

きいたふりはしてもらえるかもしれないけれど真にはきいてくれない。

だって聞いたってしかたがないことばであるからだ。

では、一体どうしたらそうではない言葉、いかにもここでこのひとが語るのを聞き逃したらよそでは決して聞くことの出来ないようなことばを語ることができるのだろうか。

そこで揺らぎという言葉が出てきた。

揺らぎとはなんであるかといえばためらいであり迷いである。

昨日かおとといか忘れたけれど「ためらったら死ぬ」って書いた。

うん。

それと矛盾するのだけれどためらい迷わなければオリジナルな言葉は生まれない。

なぜならばオリジナリティというものはどこにも存在しないからだ。

ぼくたちはオリジナルな言葉でありアイディアを生み出すことができると素朴な信仰を抱いている。

でもそりゃ嘘である。

わたしたちはそのいわゆるオリジナルなものを真にオリジナルなしかたで提供することができないからである。

どういうことか。

どれほどオリジナルなよそでは聞くことができないような言葉であっても、それはしかしあくまでも「言葉」であって、そうである限りではじめて「オリジナルな言葉」であるだろう。

ちょっとくどいけれど当たり前のことを確認している。

赤いチューリップは赤いからはじめて赤いチューリップなのであって赤くなかったらそれは白いチューリップであるとか黄色いチューリップであるとか赤いチューリップではないだろうということをわざわざ確認することと同様なばかばかしい確認である。

でもこれが重要だ。

オリジナルな言葉がそれとされるには言葉でなければならない。

しかし、言葉とはいつでも、その語の定義からして決してオリジナルなものではありえない。

言葉というものを言葉として規定するものは、それが意思伝達の媒体であることである。

伝達の媒体は汎通的なものでなければならないのであって、どうしてもオリジナルなものとはなりえない。

ほにゃぽてぷらにーとれっぷくみあうぇにけ。

オリジナルな言葉とはすでにして形容矛盾である。

と、飛ぶ。

人間のコミュニケーションを活性化するのは人間のもつこの矛盾した「オリジナルな言葉」という幻想への欲望である。

その往還、ためらいであり迷いがオリジナリティをもたらすのであるとぼくはおもう。


阿呆な人間がもうひとりいることを知る。

縁を感じる。


内側のひとになったらさっそく「偉大なる暗闇」に出会う。

なんじゃこりゃ。

ぼくがつぎからつぎにボールを放ってもつぎからつぎに返して頂く。

これほど底が知れない人に出会ったのははじめてである。

お酒とかまだあんまり慣れてないです~と媚態を演じ、また「右も左もわからない新入生」という特権的ポジションをわがエンジンに直結させてスパークさせる。

ちょっと汚い手をつかって抜け駆けをさせていただいた。

あ、でも「偉大なる暗闇」に体当たりするチャンスは席順によって規定され、その席順はさきの「機を見るに敏」というぼくのリスクテイキングなふるまいによってもたらされたのである。

ぼくは武運にめぐまれているなあ。


きょうはのんびり過ごすつもりです。