自由=疎外の弁証法的人間と鏡の出口 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

彼が何者であるかということは彼が何を為したかによって事後において回顧的に決定されるが、自己が何かを為すことは見えない何かに自ら服従することに他ならない。

何かを為すことを通じて主体化を達成し彼は彼自身となるが、他ならぬ彼がそれを為すという行為の帰属性は同時に彼という存在がその行為によって基礎付けられていることを意味する。

これは「主人と奴隷の相即」である。

主人と奴隷は相即する。

主人は奴隷を支配し奴隷は主人に支配されていることによって主人は主人に奴隷は奴隷になる。

また、奴隷は主人に支配させてやり、主人は奴隷に支配させてもらっていることによって主人は主人に奴隷は奴隷になる。

さらに、主人は奴隷に支配させてもらってやり、奴隷は主人に支配させてやらせてもらっていることによって主人は主人に奴隷は奴隷になる。

以下、互いが互いを参照し互いに依拠する相互参照性、相互依拠性は無限に続く。

ここで飼い馴らすことは飼い馴らされることであり、飼い馴らされることは飼い馴らすことである。

飼い馴らすことがなければ飼い馴らされることがないのと同時に飼い馴らされることがなければ飼い馴らすことはない。

個人としての主体は自らを従順に規律化させるがゆえに自律する。

人間はままならない欲望のもとにままなる自由を手に入れる。

人間は欲望において自由である。

人間は疎外において自由である。

疎外とは能動的・主体的に彼が構築したはずの自分の考えを、神格化し絶対視したために今度は反って彼自らがそのふるまいを規定されてしまうことであるが、「私」の同一性はその規定性の限りにしかありえない。

同一性は起点と終点を立てることが出来ないのであって、救済という目的=終点は決して到来しえない。

人間的自由において救済はありえない。

永遠に出口があるとすればそれは「出口はない」という隔たりの肯定以外ではない。

「永遠の出口」であり「善悪の彼岸」であり「ありとあらゆるものが共にあるいつでもないいつかほかのときどこでもないどこかほかのとこ」とは「凡庸と稚拙の此岸」である。

穏やかさとまっとうさとためらいのふるまいこそが最も自由で最も強く最もラディカルな知性の性質である。