スタッフ(材料=ガラクタ)をがすがす使う。
ブリコラージュ=遊歩=「凡庸、稚拙という非-方法」。
ぼくたちを生かすものとしての断片。
ゾンビっ娘萌えって意外と「ぜんぜんあり」だと思うんだよね。ゾンビのもろさはヴァルネラビリティ(やられやすさ)なんで萌え要素として十分機能する。またゾンビ化した女の子(=弱い敵)との共生というテーマは世界性へ通ずる強度をもつ。
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/8839309
何があってもいいように、気持を整えておこうと思った。この何があっても不思議はないという事実、この事実の力こそが、物語を語ることを難しくしているのだと思う。なぜなら、何があっても不思議はないとき、そのときこそがまさに、言葉が失われはじめる瞬間にほかならないからだ。ファンショーという存在が不可避であることに比例して、語られるべき対象としての彼はますます不在になってゆく。
(ポール・オースター著、柴田元幸訳、『鍵のかかった部屋』、新装版、白水社、1997年、196頁)
ここから得られることはふたつ。
その存在が不可避であることに比例して、語られるべき対象としてはますます不在になってゆくもの、それはまさに「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアン」すなわち「マクガフィン」だよね。
物語を駆動するX。
「セーブしてはならない、パスせよ」
それは「否定する身振り」でさえあれば何であってもかまわない。
「貨幣」、「学歴」、「規範的美貌」、「専門性」。
「ヨーカイザー」でもいいし「ロボットポンコッツ」でもいい(知らないでしょ)。
さらにもっと言えば「へもらんちょ」でもいいのだ(これはぼくも知らない)。
ふたつめ。
「何があっても不思議はない」という元も子もない事実こそが物語を語ることを難しくしていること。
この時代は、社会が大変なディスレクシア(失読症)に陥って
いるのではないかと思います。
世界について考える言葉が失われているのではないか。
たしかに生活言語ならあるし、言葉遊びのような排他的な
ジャーゴンは日々更新され続けています。
でも、それは老いぼれ犬のように同じところをぐるぐる回っている
だけであって、真に世界を捉えることはできていないのではないか。
ダンスナンバー2010
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10669562254.html
これを越えてゆくものは反って「越えてゆかないもの」しかない。
超越することから超越されることへというシフトがある。
マイナスがプラスに転化される瞬間がある。
ネズミ捕りならぬ猫捕りとしての「ヴィークル」。
ぼくを運んでいくものはまたきみを傷つけるものでもある。
根源的にぼくは諸君の敵である。
否定の身振り、ないものの引き受け。
素人の大掴みですが「疎外」はたぶん二種類あるようです。
二種類とはすなわち①市場経済カテゴリーにおける狭義の疎外=「労働商品として交換可能なものとして扱われている状態」のことともうひとつ、②人事百般に渡って通用するであろう人間本質についての仮説(モデル)としての広義の疎外=「能動的・主体的に構成、選択したはずの自分の考えに、今度は反って私自身がそのふるまいを規定されてしまうこと」。
前者は経済学者マルクス、後者は哲学者(というのがいやなら思想家)マルクスって印象。
っていうか疎外うんぬんいうなら大ヘーゲルに到らざるを得ない。
長谷川先生に頼る。
「判断を保留することは、無限に引き延ばされた希望を抱くことにほかならない」
「知識は緩慢にしかやって来ない。そしていよいよやって来た時には、しばしば大きな個人的犠牲を伴うのである」
なんかつかえそうなもの。
『ナゲット・クリームパン・から揚げ』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10567094172.html
『見ることについて』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10368007847.html
『越境的エチカの為に』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10311895746.html
『「である」という「する」こと』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10290589757.html
存在における作為性、作為における(存在)規定性の相即ということを考える。
「ただそこにあるもの」はすでに「そうなされたもの」であるというまなざしが例えばフーコーの権力論につながっていく。