ここでは、品性、努力、勉強について考えたいと思います。
ぼくは、この三つのことばがすごい嫌いです。
だからあんまり聞きたくない。関わりを持ちたくない。
でも、長い人生の中では、どっかで出くわすわけじゃないですか。
逃げまわっているのも反ってしんどいしね。
じゃあ、どうしたらいいんだろう。
どのように、これらのことばを応対すればいいんだろう。
それは、ことばの持ついやな感じを書き換えちゃえばいいんじゃ
ないですか。品性、努力、勉強っていうことばの方に変わってもらう
ことにしましょう。
ぼくにとってそれが好きなことばだったら、逃げる必要ないんですからね。
ことばの意味を書き換えちゃうことなんてできるの?って思ったら、
こっちを読んでね。
□ことばの書き換え、風景の読み替え(仮)
執筆中(完成を見ない可能性もあるけど、そんなことは考えたくない
よね)
まず、努力について。
ぼく、一般に「努力」と呼ばれているものにまつわるものの、大体全部が
嫌いなんだよな。
だから、ぼくは今回扱う三つの中でも、「努力」は、完全に別のものを
指し示すことばに変えちゃおうと思ってます。
まあ順に行こう。
コツコツ積み上げる努力、ちりも積もれば山となる。
日々のたゆまぬ努力を続けた結果、彼は成功者となった。
うわー、すごいキモチワルイ。
申し訳ないけど、ぼくほんとに、そういうの生理的に無理なんだよね。
大体さ、「成功者」諸君は、「自分は努力をしてきた」って思っているに
違いない。
「そんなこと考えたりしないよ」って言う人は、たぶん「成功者」としての
同定を好まない人なので、例外として扱っていいだろう。
だからたぶん、「成功者」って呼ばれてにやける人はみんなそう
おもってるんだな。実際のところ。
でも努力ってそういうもんだろう、っていうことになっている。
だから、「努力なさい」っていうお説教や、「もっと頑張りま賞」なんていう
のは、そういう「努力」を推奨しているのだろうとおもう。
冗談じゃないよね。ほっといてくれって思わない?
ぼくはそう思う。努力ってホントにそんなくだらないものなんだろうか。
ここでそういった「成功者の努力」に対する反証として考えたいのが、
ラッキーマンっていうマンガ、及びそのアニメに登場するキャラクター
「努力マン」だ。
努力マンは、尋常ではない努力で以って、悪を討つ。
(ラッキーマンは尋常ではないラッキーで悪を討つわけだ。)
でも、ぼくは努力マンが好きなんだよね。
なんでだろう?名前からして「努力マン」なのに、あの「成功者の努力」
みたいなものに対する気持ち悪さを感じない。
ここにぼくらの「努力」を構成するためのヒントがある。
それを考える為に努力マンの尋常ではない努力を示すエピソードを
紹介しよう。(記憶があいまいだから細部は違うかもしれない)
努力マンはいつも鉄下駄を履いている。これがめっぽう重い。
筋トレの為におもりをつけたりするよね。あれと同じで、重い鉄下駄は
「日々是修行」という努力マンの思想を表している。
でも、その鉄下駄は、本当は豆腐でできているのだ。
どういうことか。(いま調べてみたらWikipediaに載っていた。)
努力マンは宇宙一の鍛冶職人、カチカチ・カッチンナ先生に弟子入り
したんだけど、その最後の修行として、絹ごし豆腐を鍛え上げる
ことを課せられた。50年に及ぶ努力の末に完成した豆腐下駄は、
一丁300gの絹ごし豆腐が10万丁凝縮されているので、
片方で30万tの重さがあるのだ。
ここからわかることは二つ。
ひとつ、別の人に師事していること。
もうひとつは、彼はいやいや努力しているんじゃないってこと。
師事については、また考えることにして、ここでは
「いやいや努力」と「そうでない努力」との違いを考えよう。
ぼくが思うに、「成功者」は「いやいや努力」、「努力マン」は「好きで努力」
しているのではないかと思う。以下にそれを説明したい。
ぼくが嫌悪してやまない「努力」は、「いやいや努力」の方だ。
つまり、一般に流通している「努力」ということばが指示するのは全て
「いやいや努力」であると言いたいのだ。
もし、きみが「(一般的な意味での)努力」をしたことがある、というので
あれば、それは必ず「いやいや努力」であったはずだ。
そんなことはないって?ことばが少し良くないかもしれないね。
「いやいや努力」が「消極的かつ受動的な努力」、「好きで努力」が
「積極的かつ能動的な努力」、というのではないのだ。
ぼくの言う「いやいや努力」とは「手段としての努力」、
「好きで努力」とは「目的としての努力」を指す。
努力マンの努力は、「目的としての努力」である。
先の、豆腐下駄の話をみてみよう。
彼は「努力」して、豆腐下駄を鍛え上げたわけだけれど、
それは何の為だったろう?
もちろん、「免許皆伝」のためってのもあるとは思うんだけど、
それは今回はおいといてね。
いい、豆腐下駄が完成した後、彼はそれを履いたわけだね。
では、「豆腐下駄を履くこと」は、更なる努力それ自体であったのでは
ないかな。ぼくはこれはすごいことであると思う。
「○○のための努力」、この○○に「努力」を代入するとき、
「努力のための努力」となるだろう。
それ自体が目的であるということ。それを「遊び」っていうのだ。
ここで、ちょっと唐突だけど「品性」のはなし。
品性とは、上品と下品っていうふうに評価されるもののことだけど、
上品、下品とはどういうことか。
上品とは「クリエイティブであること」でも「気が利くこと」でも
「ダンディであること」でも「ワインの年代当てができること」でも
「ブランド物のバッグをもっていること」でも「そばを音をたててすすら
ないこと」でも、断じてない。
上品というのは、それ自体で満足していること。
対して下品とは、何かの為だとか、それ以上のリターンを求めるふるまい
のことだ。
だから努力マンは上品で「成功者」は下品なのさ。
最後に、最も身近な問題、勉強について考えよう。
テスト勉強がわかりやすい。
テスト直前になって慌てて勉強をしている人を指差して、
日ごろからコツコツと「努力」を積み重ねた人が笑う。
きみは「努力」を知らないんだな、って。
でも、ぼくたちはもう知っている。
「日ごろからコツコツ」してきた後者の「努力」は、
「手段としての努力」にすぎない。
反対に、テスト直前になって慌てて勉強をしている人は
その間、何をしていたのだろうか。
それは人によって違うと思うけれど、中には「遊び」で、
何の為とは無しに、ただ楽しいから、あることを「努力」してきた
者もあるのではないかな。
彼はもはやそれを「努力」とは認識していないかもしれない。
だって楽しいから、やっていたわけだからね。
でも、真に「努力」を知っているのは、そういう人の方なのだ。