思考、文体の生理について。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

思考とはなにか。


思考とは文体のことだけれども、ぼくたちが本当に聴きたい

のは、混乱し、躊躇い、迷うことばなんだよ。

そのほうが歯切れのいいイズムなんかよりもよほど強いものさ。

それから、繰り返されることば。同じことばが聴きたい。

一流の表現者はそれを知っているから、例えば山下達郎は

達郎ソングを歌っているのだね。
ところで、文体について、司馬遼太郎さんが「自己模倣」を避けよう

として、確固とした文体の確立、というのは意図的にしないようにして

いたらしい。

これはフーコーにおける「アイデンティティの倫理」の棄却とおんなじ

ような思考だと思うのだけれど、どうなんだろうね。

ラディカル(=根源的)に「自己模倣」を評価するならば、やはり交換

(あるいは交歓)、コミュニケーションにおける、項の価値ということを

考えてみなければならない。

我々が交換を行うのは、価値のあるものを手に入れるためである。
…んなわけないでしょ。

交換が愉しいから、だった。
交換の愉しさ、ということを考えるには、クリスマス会でのプレゼント交換を

想像してみるといい。そこでは恐らく、「交換されるプレゼント」はラッピング

が施されていて、正体がわからないはずだ。

わかるね。交換自体を楽しむ態度をもつとき、交換されるものは「それが

なんであるか」がわからないほうがいいのさ。

んー、というわけで、自己模倣はあんまりよくなさそうだなあ。
自己模倣のヘイガイ、というとぼくはどうしても赤川次郎を思い出して

しまう。

え、どういうことかって?
三毛猫ホームズシリーズを片っ端から読んでみるとよくわかるだろう。