「私が変わること」への畏怖 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ぼくたちは普段考えないようにしているけれど、

自分について、無知なんですよね。


自分のことくらいよくわかっているって?

バカを言っちゃいけない。

私というものは、刻一刻と変わっていく。

「知る」ということは「語る」ということであるけれど、

語る主体を語るものはいない。


私は私にとっての他者である。

時は他者である。


「何にも知らないわよ、知らないことだけ」ってね。

え、知らない?

じゃあ野暮だけど書くと、

「何でもは知らないわよ、知ってることだけ」ではなくってこと。


さて、とにかく、自分が変わっていくことほど怖ろしいものはない。

世で一番怖いのは、そりゃ「自分」ですよ。

だからカフカの「変身」では他の誰でもなく自分が変身するんだね。


お釈迦さまの仰った「四苦」とは「生・老・病・死」の根本的な苦しみ

のことであるけれど、これって全部自分の身にそれらが覆いかぶさって

くることが苦しいのであって怖いんだろう。

未来については誰にも確言できないのだったけれど、でも、自分が

老いて病に伏し死んでいくことを想像しないではいられない。


「私が変わること」への畏怖は、未-知への畏怖である。

ぼくたちはそれが何であるかわからないものをこそ怖れる。

力が怖いんじゃない、未-知が怖いのだ。


時について少し考えよう。


①過去-現在-未来

②大過去-過去-現在-未来


時が経てば、①の時点で現在だったものは②においては

過去になり、未来であったものは現在になる。

過去は過去のまま、遠い未来は未来のまま。


未来はわからない。それは未だ来たらざるもの、未-知である。

では現在はどうか。


「それが何であるかは事後的に回顧される形でしか与えられない」

のだった。

現に生きられている状況は、終っていない。

現在とは事-後ではない。

「知る」とは「語る」ことだけれど、ことばは常に遅れてやってくる。

これでは現在には追いつかない。


ぼくたちは現在について無知である。


さて、次の問題。

ぼくたちは過去について語りうるか?