「一人称代名詞について」において、ぼくが「僕」ではなく、
「ぼく」を採用することについて、ぼくは次のように語った。
「ぼくが「僕」を採用していたのは、それこそ村上
春樹の影響だったから、今ムラカミから少し距離をとろうと
しているのかもしれないな、と少し思った。」
(http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10441847524.html
)
ごめん、ありゃ嘘だ。
「ムラカミから距離をおこうと思った」なんて、なにやら
かっこつけているけれども、あれはもっと直感的な行動だったろう。
ぼくは算盤勘定でそうすることにしたんだ。そうした方が、ぼくに
とってより利益が大きいからそうしたまでの話であるように思う。
それは、どういうことだろうか。
みなさんは意識したことがなかったかもしれないが、ぼくらには各々、
その時々において「語ることができるものの範囲」というものが
与えられている。
「語ることができるものの範囲」は、ぼくらを取り巻くあらゆるファクター
によって実に複雑な仕方で規定されているものである。それは、決して
明快な単一の原因に帰することはない。
「家父長制下の男根主義的社会的抑圧」だとか、「自民族中心主義から
抜けきらない西洋オリエンタリズムによる植民地主義的な第三世界への
再びの抑圧」だとか、「知識人としての役目を放棄して政治家と癒着する
ブルジョアジー層を操りマスメディアを牛耳り、情報操作による大衆扇動
的抑圧を繰り広げるフィクサー」だとか、君は言うだろうか。
それらは、まあ、ぼくはそれぞれに一定度の「理」ありとする説明ではある
けれども、それだけがぼくらの「語ることができるものの範囲」を規定する
条件ではないのだ。
歴史上の多くの「革新派による「抵抗」」は、これを転倒させて、「私は抑圧
されている当事者である」から、「私は正しい答えを知っている」というロジッ
クを構成したけれど、それは早とちりというものである。
「語ることができるものの範囲」はそれを規定するたくさんの条件を抱えて
いる。そのうちのどれかひとつに別の値を代入することによって、「語ること
ができるものの範囲」は、ある程度動かすことができる。
そして、その条件の一つが、「一人称代名詞」、つまり、「ぼく」か「僕」か、
という問題なのである。僕が「ぼく」か「僕」か、ということを考えたとき、
僕は「僕の今言いたいこと」は、「僕」という一人称代名詞を選択したとき
の「語ることができるものの範囲」にではなく、「ぼく」という一人称代名詞を
選択するときの「語ることができるものの範囲」の領域に属しているように
思ったのである。
だから、僕は「ぼく」を選んだのである。
さて、ではつぎに、どうして今ぼくは、『「ぼく」という一人称代名詞を
選択するときの「語ることができるものの範囲」の領域に属しているように
思ったのである』などというような歯切れの悪い言い方をしたのかについて、
説明しよう。
ぼくは、この文章の冒頭で『「語ることができるものの範囲」というものが
与えられている。』と書いたが、「与えられている」というふうに対象が存在
するということは、同時にそれを「与えた」主体がどこかにいなければならな
い。それは、やはり「わたし」を措いて外にあるまい。なぜならば、僕は
勝手に「ぼく」を選び取ったからだ。別に誰かにそうするように命ぜられた
わけでもない。ここで言われている「わたし」とはどういう事態なのか。答え
を先取りしてしまうと、実はそれが同時に、ぼくの歯切れの悪さの正体でも
ある。
僕が「ぼく」を選んだ時点にもう一度立ち戻ってみよう。
そのときの僕には、(ややこしいけれども、その時点ではまだぼくは「僕」と
いう一人称代名詞を採用していたのだった。)どうして「自分の言いたいこと」
が、「僕」の領域にはなく、「ぼく」の領域にはあるのか、ということを答える
ことができなかったろう。それは、人間の思考の性質に由来する。
人間は自分が何を考えているのか、はじめから知っているというようなこと
はない。全然ない。
自分が語ったものを聞いてから、自分が何を語ろうとしていたのか、何を
考えていたのかということを知る。つまり、語っている瞬間にはこれから自分
が一体どんなでたらめを口走ろうとしているのか、知らないのである。
考えが原因にあって語りが結果するのではなく、語りがまずもってあって、
ぼくたちはそれを通して考えにたどり着く。だから、何も語らない人間がいた
としたら、彼は自分のことを何も知らない人間である、ということだ。
このように、語りと考えは一般的に考えられているのとは順番が逆なので
ある。だから僕にはなぜ「僕」をやめて「ぼく」にするのかということを、まだ
言うことができなかったのだ。先の「わたし」というのは、かつての「僕」では
なかったろう。しかし、それはぼくでもないかもしれない。しいて言えば、
それは「僕」と「ぼく」のあわいにいるのだ、とでも言えばいいのかもしれ
ない。ぼくが何かを語ったあと、振り返ってかつての僕による「ぼく」の採用
の決断という不思議を考えたときに、それをなさしめたのは、「わたし」だ、
とでも言うほかない、という形で「わたし」はぼくらの前に立ち現れてくるの
である。
ぼくたちにはなぜそうするのか、言えない場面というのが存在する。ぼくたち
にできるのは、自らの知的ブレイクスルーの可能性を信じて「語ることが
できるものの範囲」、「思考」、つまり「現在の私」を規定・構成する条件を
攪乱することだけなのだ。
したがって、大島さんが言った「アイデンティティの古典的模索」は、ぼくに
とっては全くのミスリードとして機能した。いや、もしかすると、そうして「意味
性のクレバス」からぼくを遠ざけることで、守ってくれようとしたのかもしれ
ない。
でも、まあ、そんなむつかしいことは大島さんにメロメロになっていた当時の
ぼくには、到底わからないことであったのだ。