時は存在である。
存在は底抜けで、その裏に何か崇高な意味を隠すというような
ことはない。であるにもかかわらず、眼前に広がる事実性が
存在の神秘だ。
時は嘔吐を催すほどの迫真性、無意味さそのものだ。
貨幣は流動性そのものではない。
(The moon is not made of green cheese itself.)
貨幣は流動性の代理表象である。
流動性とは何かの意味を潜在させるもの、
しかし、具体的にどんな意味をとるのか、どれだけの価値が
あるのか、わからない事態を指す言葉だ。
流動性は、隠されるべきことは何も存在しないということを
隠す、いわば「無責任な指示」、それが何かの痕跡であると見なす
感受性が作り上げたものである。
流動性は失われたシニフィアンのことである。
「君は誰か?」その問いかけに応答する為に語りだされた言い訳、
前未来形で語られる過去である。
時は問う、「無意味だ。それは君ではない。」
貨幣は答える、「どういう意味か、これが私だ。」
時と貨幣はいつまでもすれ違う。彼らはまるで似ていない。