□日常系から失恋ゲームへ。
・(前略)だから、僕には『DEATH NOTE』よりも『らき☆すた』の
方がずっとラディカルだと思えるんです。
これが日常であるという「所与の現実」をとりあえず引き受ける
ところから話を始めているからです。
読み替え可能性は日常にこそ宿ります。
でも、日常系にはいくらかの問題があります。
日常系の作品をなんでもいいので見ればわかると思いますが、
独特の閉鎖感と貧困な想像力(無責任さ)があるのです。
別にそれを責めているのではないです。
日常系は人間のあり方をクールに写し取っているだけですから。
それは、人間が自分の見たいものだけを見、知りたいことだけを
知るという事実です。
個を規定するのはその可能性ではなくむしろその不可能性なのです。
「僕」には「君」の気持ちが原理的に理解できない。
何となくこうじゃないかな、と考えてみることはできる。
でもそこで考えられたものは君の気持ちに絶対に追いつかない。
僕は君ではないから僕なんです。
「他者の理解不可能性=差異」こそが自己を成立させる。
日常系の困難は恋愛の困難に一致します。
でも、だからこそ、僕は日常系を超えなければならない、
(「いや、それでも愛はある!」)というわけです。
僕が為すべきは、「閉ざされた他者への回路」(初めから閉ざされて
いるんですが)を再び開くことです。正確には、開かれているという
物語を今一度打ち出すことです。
・「失恋」なんて認めたくない「非日常」です。そんなのはやがて
「解決」されて、元の「恋愛」という「日常」に帰るべきだと「僕」は
言います。でも、そうはいかない。「僕」は「非日常」を「日常」と
して受け入れていく他にありません。
いわば、「恋破れて山河あり」ってことです。
僕が絶望しようがそんなことはお構いなしに世界は続いていきます。
□なぜ失恋「ゲーム」なのか。
簡単です。
失恋主義をポスト決断主義に位置づけようとするからです。
繰り返しになりますが、恋愛は必然性を呼び寄せます。
これはゲームからリセットボタンを手放させることです。
恋愛を俟って始めて人生は「リセットできない決断主義のゲーム」と
なります。
その上で、「失恋」ですから、勝負に敗れるわけです。
もうバッドエンドの袋小路に入り込んでしまったのだから、
「GAMEOVER」の表示と共にリセットされるべきなんですよ。
常識的に言って。
でも、いつまで待ってもリセットは訪れない。それが恋愛だからです。
『解題:「失恋ゲーム」』で書きましたが、「失恋ゲーム」という呼称自体が
この「現実」が事後的な視点に立って語られていることを表しています。
だからそういう意味で「歴史の終わり」であり、もののけ姫の「生きろ。」
に繋がっていくんじゃないかと思います。
余りにも平板な世界だからこそ、「偽史的なまなざし」の想像力、
すなわちナイーブさと躍動感を生成するのです。