僕にとって、僕という存在の確かさは、否定しがたいものがある。
僕が僕自身について、リカーシブに考えを巡らせるとき、僕は
消去できないように思える。
われ思うゆえにわれあり。
僕は考えている限り、つまり、考えるという行為がそこに成立している
限り、その主体たる僕は、取り除くことができない。
なるほど、僕という存在の確かさは、考えるという行為の構造によって、
アプリオリに根拠づけられている。
だから、僕が僕を消去しようと考えていると、何かがこんがらがって、
逃げられてしまうような感じになる。
単に僕の力不足なのかもしれないけれど、このやり方だと、
少なくとも今の僕には、解決はない。
今、僕はデカルトに従って、「僕」を巡る問題系全体を解消するために、
最高の難問である「僕について考える僕」という問いを採用した。
これが大事なのは確かだと思うけれども、これが解けたら全てが
解決するか、といったら、それにはまだ届かない。
なぜならば、普段の僕、日常に埋没する僕は、「僕とはなんぞや」なんて、
考えないからだ。
僕は、僕について考えることはなく、僕をやっている。
音楽のように、波のように。
そういう、普段の僕は、確かに存在するといえるだろうか。
「われ思う故にわれあり」が示したのは、考えているときの僕だけ
なのであって、考えていないときの僕については何も保証してくれて
いないんじゃないか。
それとも、考えていないときの僕だって、いつでも好きなときに自分について
考えることができるのだから、存在するのとほとんど同じことだと、見なして
いいのだろうか。
いいかい、ひょろ君。「僕」、なんて存在しないんだよ。
そんなものは、忌むべきインチキだよ。
どうして?
「僕がいて、君がいる。それが世界の全てだ。」
転倒させよう。
「僕/君はない。それが全き世界だ。」
生命と情報は相容れない?
僕は君を愛することはできない?