多様な解釈に対して開かれた表現の方が、よりうまく僕の考えを伝達できる。 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


 僕たちが自由に物事を表現しようとするとき、

自分の言いたいことをのびのびと描き出そうとするとき、

事態は逆説的に、表現から潔癖さと強固さ、硬質な手触りを

取り除くよう求める。

表現は無限の読者に対して、それぞれの勝手な解釈を

許すような、ゆるやかな、開かれた空間になる。


そのことは僕たちにとっての僕たち自身のわかりがたさ、

知ることを拒むような、迂遠さに由来する。


僕は、「僕の真に言いたいところ」を表現として外の世界に

発するまで、それが自分のことであるはずなのに、よくわからない。


僕の表現というものは、まず第一に、僕自身に向って、その内に

湛えた何らかのメッセージを伝達することを目的としている。

僕は、自らの表現を通して初めて、「僕の真に言いたかったところ」

を知る。

さらに言えば、「僕の真に言いたかったところ」は、表現に先立って、

予め僕たちの内に存在するわけではない。


僕が自分に向けて表現した場面において、そこで語られてしまっている

ものの解釈と評価を通じて捉えられた「距離」から、僕はもしかして

こういうことを言いたかったのではないか、そうであるとして僕は、

それに賛成/反対である、という「態度=僕の意見」が発生する。


すべては、語られてしまっていることの内から始まる。

僕の考えとは、僕の表現の、一つの解釈に過ぎない。


したがって、解釈に対して広く開かれた表現の方がそうでない表現

よりも、うまく僕の考えを引き受けることができるのである。