子どもたちはかげふみのようなことをして | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


月の砂漠で、あるいは終ってしまった世界の

大海で、僕らは、一体どうしたらいいんだろうか。



情報の砂粒や水しぶきと僕のアヴァターとの間には

厳密に言えば、ちょっとばかしクッションがあった。

「それ」を通して、僕はたっぷり水を呑み、波に翻弄され、

浴びせかかる砂つぶてに襲われて苦しんでいたわけだ。


だから、その<つるつるとしたモノ>を回収できれば、僕が

一体どういう目にあったのかがわかるだろう。


また、それは入力の履歴のリストであるだけでなく、

出力の履歴のリストでもある。となれば、それは僕が何者

であるかというリアリティの確認にも使える。つまりは、僕が

誠実であったかどうか、どういう選択をしてきたのか、それが

わかる。


さらに、<つるつるとしたモノ>を通して、僕はいろんな物事を

迎え入れて、それに対して反応するんだけど、僕がどういう

リアクションをするかっていう行為のコマンドは、<つるつるとした

モノ>上に選択肢として表示され、その中から僕は選んでいる

ようだ。


その選択肢は僕の中の価値準則との比較検討、僕のそれまでの

連続する行為とのコンテクスチュアルな整合性の確認、そして外部

環境を参照し、社会的イメージとのすり合わせ[=第三者の審級に

よる「助言」]を経て、何やかやを足したり引いたりしてからピックアップ

されたものだ。

でも、僕はそこで欠落した他の選択肢を知らない。

飽くまで、僕にできるのは、四択なら四択の中からひとつを選び、

決断することだけだ。



それにしても、海や砂漠はぐるぐると廻り続けている。


「繰り返されるサンプリングの大いなる円環」・だから・「やがて

来るべき諸価値群」。


それがさぁ、すごい規模の大きい止揚の過程に見えていたのは、

僕たちがそれまで「小さな居心地のいいサークルで嬌声をあげて

いるだけ」だったからだ。だが、『今やすべては出揃った』。


僕は海や砂漠を嗤い、「わかる人とわからない人がいるけれども、

わかる人だけが、僕の友人だ」と言って、溺れたフリをし続けた。

そして、溺れているようなことがアディクティブにただ楽しいと

思って、その海に、砂漠に、身を委ねていた。


何よりも、底抜けた、漠然と広大だってことが、悲しく思えた。


んで、まあ、僕はマトリクスの向こう側、例えばそれは赤い表紙の

小説でもいいんだけど、その行間に消えてしまうような……、

リトル・ピープルにも見放されちゃうような、暴力とハルマゲドン願望

の抵抗も、うん、やっぱりちょっと共感しちゃうね、それも考えたんだ

けど、結局、何か違うんじゃないかと思って、やめた。


僕が他でもなく、この、海や砂漠の「物理現実」に愛着が湧いちゃった

のかさ、何か他人事じゃないんだよね。

鳩とピーナッツと排気ガスの臭いの混じったスモッグの充満したところ

なんだぜ、笑っちゃうけど、それが僕のお気に入りの場所だったんだ。


たぶんあの呑んだくれのせいかもしれない。

しかも、彼はニセモノのニセモノのニセモノのニセモノだったにも

関わらず、だよ?そいつが、このチンプな物語に「標識づけ」しやがった

んだ。そいつが語った話が、今ここで溺れゆく僕との間に緊密な連続性

を成立させていない、無意味な、筋の通らないものだったから……。


全く、迷惑な話で、そいつが「誠実たれ」って言ったのに、同時に、

そいつのせいで僕は、「誠実ではいられない」臨界点に縛りつけられる

ことになったわけ。


だからさ、僕らは右も左も上も下もないこの海で、あるいはこの砂漠で、

――僕は海って呼ぶ方が好きなんだけどさ――とにかくそこで、同じこと

を「パタン・ランゲージ」として共有可能な形式知化、戦略化したらいい

ってわけだ。

知らなくたって構いやしないんだ。面倒な話はリズムに語らせて、僕らは

その代わりにそこで、かげふみのようなことをすればいいんだ。


だからこそ、僕はその為のプラグマティカルな方法論として、<魂>の概念

の導入を提案する。


それは、無意味な細部として世界に現出する。

それは、その表れをいろんな意味に還元していくと――触ろうとして

近づいて手を伸ばすと――消えてなくなっちゃうんだけど、それを僕らが

決して読むことのできない、共有できない<死角のリアル>として予め

心得ておいたならば、僕らはそこに次のステップを見出して、踊り続ける

ことができる。

僕らは<魂>によって世界の内から、他でもなくそれを正しくまなざし、

異化、外延化、意識化、対象化して、一歩先の足場を指し示すシグナル

として受け取ることができる。


そして、そこに「ポストヒストリカルな歴史性」を感じることができるのならば、

僕らはここに留まって、「僕らにとっての」ただのサンプリングではない、

つまり相対的な無限のサンプリングのひとつではなく、一回的で新しい

プロセス・プランニングを続けて、これまでよりはいくらかクールに、

<善>へと漸近し続けることができるってもんだよ。