>>それが「道徳的趣味」の領域へと拡散しないように
「どうにか」しないといけない。
ほんとに、どうすればいいんだろう?
どうすればいいか、わかった。
ここで、もう一度、「先生」が登場する。
「先生」を「決断する主権者」と見立てることにしよう。
現実問題、「教室」に人々を閉じ込めておけるのは、
「限られた時間」[=寿命]になる。つまり、今ここ[=Jetztzeit]で
円環構造を「終らせる」恣意が必要ってことだよね。
だがそれは、多分に可謬的だ。だからこそ、「可謬的な主権者」を
諫める「反逆としての忠誠」者を用意する。
それは、詰まるところ、「真摯さ」ということになるだろうね。
もちろん、参加者とて、私益から離れるのは難しい。
そのギャップは「相互能動性interactivity」によって埋められるだろう。
(「終わりの無限化」→「終わりの無化」はアウラ化、「授業」の
一回性によって解決されることになる。)