運慶とWeb2.0(その1) | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


迷ったけど、結局載せることにした。

どんな長文でもきっと読んでくれる人もいるだろう、と思う。


さて、お茶とお菓子でもつまみながらまったりと読んでください。




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短編集オムニバス、映画ユメ十夜「第六夜」(松尾スズキ監督・脚本)を観て、

僕の頭に引っかかるものがありました。

なるほど、確かに運慶×ソーセキ×ポストモダァンのデフォルメは観客に強烈なインパクトを与えます。白黒の映画なのに運慶のダンスを見た僕の目にはアバンギャルドな極彩色がうつりました。運慶が槌を振り上げて・・・スコンと一発。キタ━(゚∀゚)!!!!!

「さすがは松尾スズキだな。眼中に我々なしだ。あっぱれだ。」

さて、ここまではいい。

僕が気になったのは集まっていた見物客のほうです。

ドラマ(映画)「電車男」でも気になったのだけれど、彼らのような

監督は何か思い違いをしてはいないでしょうか?

よく言われることですが、例えば「2ちゃんねらー」という特定の集団はネットのどこを探しても存在しないのです。


TVで散々宣伝されているように(ただしネガティブな面ばかり強調されている)現在までのネット社会の特徴はその「匿名性」にあります。人がネット社会に参加することは現実社会からのデタッチメントを意味します。人はネットに参加するときはいつも孤独なのです。

電子掲示板サイト「2ちゃんねる」のスレッドを覗いてみると、激しい罵りの応酬を目にすることができます。(平和なスレッドももちろんあるわけですが)このような「煽り」合いは日常茶飯事です。ネット社会へ低年齢層が(未成年、最近では小学生も!)どんどん参加し始めていることも原因のひとつにはありますがこのような顔の見えない相手への罵詈雑言もまた「暴力性」の問題だと思います。

今日の日本の社会は豊かな、消費者中心の社会、「モノアマリ」の時代です。

消費者には同一の商品から質や特長によって自分の好みに合うものを選ぶ余裕が生まれ、逆に店側はただ商品を並べただけでは買ってもらえません。

「モノアマリ」の社会の特徴を最もよく表しているのは「ダメージジーンズ」でしょう。

「ダメージジーンズ」はファッション性を高めるためにわざと傷や汚れ、脱色といった加工を加えたジーンズのことです。

僕の祖父は、僕がダメージジーンズを履いているのをみて

「穴あいてるからおばあちゃんに縫ってもらえ」

と言っていました。

物が少なかった戦争の時代を生きた人には絶対に理解できないファッションだろうと思います。

さて、日本の社会はそんな「モノアマリ」の時代であり、企業はCMに目が回るくらいのお金をかけ、企業イメージの保守に躍起になっています。

確かに、厳しい消費者の目に晒され競い合うことで技術は進歩し、よりよい商品が生まれる環境であることは確かですが、全くのデマから不買運動が起こり風評被害によって会社が倒産したというようなケースを聞くと、「モノアマリ」の社会の暴力性を考えさせられます。

ここでいう暴力とは本来的に人間が持つエネルギーのことで、必ずしもネガティブなものではありません。戦争を起こすのも暴力ですが、オリンピックで競い合うスポーツもまた人間のもつ暴力を昇華させたものです。暴力は確かに危険なものですがどうやってもなくすことは不可能だし(精神と肉体でいえば暴力が宿るのは明らかに肉体の方であり、近代において人類は肉体を否定したが、結局精神だけでは人間は成り立たないという結論に至った)それならばうまくコントロールしてできるならば社会に役立てたほうがいいでしょう。しかし、平和な時代が続き、自分のもつ暴力性をきちんと把握できずにうまくコントロールもできない人が増えているというのも確かです。

歴史を鑑みると第一次産業がメインの社会は「モノケツボウ」の社会、

第二次、第三次産業がメインの社会は「モノアマリ」の社会と大雑把に考えられます。

第一次産業に重点を置く社会、例えば江戸時代の日本は階級を士農工商としました。

鎖国をしていたから少し特殊な例かもしれませんが、農と工を重視していたことは確かです。農も工もモノを生み出す仕事です。そして、モノ作りは暴力を発散する手段として有用です。

芸術家には夢を見ない人が多いそうですが、それは自分の内側にあるもの、たとえば暴力を全て作品に注ぎ込むからです。基本的に芸術作品はその作品を作った芸術家の鏡です。

少なくとも作り手の内側にあるものは作品の中に生きています。

ときには作品が生まれる過程で化学反応(ビックバンと言ったほうがいいかもしれない)が起こって作者を超える作品が生まれることもあるようですが・・・。(作者を超えないものは「芸術作品」に及ばないとする考え方もあるらしい。)

「モノアマリ」の社会は、主に第二次、第三次産業中心の社会でモノ作りの機会が比較的少ないうえに、長く続く平和ゆえに暴力をうまくコントロールすることができない人が多く、さらに消費者中心の社会のために暴力を極端に押さえ込まなくてはいけません。

比較的暴力が人々の間で溜まりやすい社会といえるのではないでしょうか。

そのため人々は自身の暴力の捌け口をネットにもまた求めているのです。

その傾向の理由のひとつは詳しくは後述しますが、ネットが成熟しつつあり「情報の受信」だけでなく「情報の発信」まで自由にできるようになりつつあることもひとつでしょう。

その結果として極端なものはブログの炎上や掲示板での犯行予告といった形で表れてくるのです。

余談ですが、最近日本でも凶悪な猟奇殺人が増え、ポップカルチャーの世界でも「グロ」の要素が入った作品が流行っているようです。

そのなかでも現実に起きた猟奇的な事件との関係性を指摘されている「ひぐらしのなく頃に」という作品があります。「ひぐらしのなく頃に」シリーズはもともとはサウンドノベル(ゲーム)から始まり、アニメ、漫画、小説、フィギュアetc.と様々なメディアに進出していますが、このうちのアニメ「ひぐらしのなく頃に」は猟奇事件との関係性の指摘を受けて放送を自粛したTV局もありました。

ウンベルト・エーコのいうように作品に意味を見出すのはあくまで読者です。「グロ」だけの作品ならば、これほど多くのメディアに進出できるほど売れるでしょうか?

作品を曲解し、そこからネガティブなコードだけを拾い取ったのなら、それはある読者が異常であったというに過ぎません。しかし、これまでのケースに限れば、それどころかただの模倣犯でしょう。

言うまでもないことですが、ネットにしろ私生活の趣味にしろ、あくまで我々は社会の内側に内包されているわけですから、その社会のルールの範囲内で楽しむことが前提となっています。他人を殺すことに救いを求めるものがいるかもしれない。しかし、社会的にはそれを認めることはできないのです。簡単に言えばそれが「グロ」が流行る理由だろうと思います。「キャラクターアニメ」の流行と同様に、背景にはネット社会の発達も原因にあるかもしれません。

僕は最近のアニメの特徴は「キャラクターアニメ」だと考えています。

「キャラクターアニメ」では時として物語以上に登場人物をひとりのキャラクターとして完成させることを重視します。それはネットの発達によって、キャラクタービジネスが進化してきたためです。その点は後述しますが、それに伴って物語は必ずしも一つのアニメの中で完結する必要がなくなってきたのです。






つづく