「なんたらを追うとか追わないとか」



あー。最近就職活動とかいう例の「あれ」が終わったわけでありまして。





まぁ、就職活動していくなかで自分の「なんたら」はどのベクトルを向いているのかを追求する時期が続いたんですね。




それを今日たまたま思い出したんで筆を取ったんです。



大学の知り合いが「仕事で達成したいなんたらがない」って言うわけですわ。





就職活動を継続中の彼女は「なんたら」がないと企業からマイナス評価を受けると思ってるんです。




まぁ、企業をひとくくりにしてんのもあれかとは思いますがそれは置いといて、「なんたら」はない。そう言い切れる人材を彼女の言う企業は求めているんじゃないのかと思われるんです。



僕たちは、いや、僕たちよりも先輩、それも40歳くらいまでの人たちは、芦田宏直氏も言うように(以下参照 http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100524/227559/ )

「個性」、「自主性」、「特徴」を持つことを強制された世代なんだと思われます。



そこから、「なんたら」が無いと「いけない」意識を持つことにつながる。なぜなら「なんたら」を持ち、それを語ること自体が「個性」、「自主性」、「特徴」にダイレクトにリンクするから。


そのざぱん教育に埋もれてしまえ。そうすれば楽。「なんたら」を語りさえすればいいから。



ボーっとしてて埋もれそびれた人、その人たちはその視点を発信するべき。


それがざぱんのためになるかと。


僕の場合。


「なんたら」自体はあるようでないし、ないようである存在。



サッカー少年やってた頃はもりろんあった(笑)わけです。まじで「()笑い」の夢が。


でもそれ自体、ざぱん教育によって作られたものだったかもしれん。



就職活動を通して考え始めたわけです。



「なんたら」は僕にとってはそんなものだったわけです。




それを特別追求することはしました。わかんなかったですね。だからやめました。




時間の無駄だと思ったからです。




突き詰めて考え(たつもりにな)る。そんな状態になってるのに気付かない。それは避けたかったです。


むしろ「わかんない」でいいやと思いました。



自然と見えるまで待とうと。そして最終的に見えなくてもいいと。



答えのない方程式だと思いました。



「なんたら」をただただ追う人を「盲目的に」すげーとか言ってる人にはなりたくないなと思う今日この頃です。




巷にはびこる商業的な文言にまどわされず、飄々と生きていきたいです。