オーストラリア・メルボルン南区――港町に隣接した歓楽街《ノースヘイブン》。
昼間は観光客が行き交うだけの静かな通りだが、太陽が沈むと途端にその肌を変える。
この街では、陽が落ちてからが本当の一日だ。
通りを埋め尽くすネオンが紫と金の光を交錯させ、湿ったアスファルトに溶けていく。
ガラス越しには派手なドレスに身を包んだ女たち。露出の高い衣装で、通りを歩く男たちに指先を絡めるように声をかける。
香水とタバコの匂いが空気を満たし、路地の奥ではベース音と笑い声が渦を巻いていた。
通りを行く男女は皆、何かに酔っている。
スパンコールの光を散らしながら腕を組むカップルもいれば、顔を寄せ合って夜に溶けるように笑う者もいた。
海風の向こうから漂うのは、焦げた肉の匂い。
オープンテラスでは数人の男たちが鉄板を囲み、ビールを掲げて騒いでいる。
油が跳ねる音と笑い声が、夜のざわめきに心地よく混じり合っていく。
ここでは、煙さえも娯楽のひとつだった。
その喧騒の少し先では、二人の男が殴り合っていた。
周囲の客たちは止めるどころか、グラスを手にマイフォンを掲げ、まるでショーでも見るように歓声を上げる。
誰もが夜を愉しみ、誰もが誰かを見て笑う。
この街では、暴力でさえ酒の肴になる。
そんな喧騒を抜けた先――ネオンの届かぬ裏手のコインパーキング。
暗がりの一角に立たされていたのは、黒のタイトスカートに薄手のジャケットを羽織った若い女だった。
化粧は長い仕事の後でわずかに崩れ、手にしたクラッチバッグには鍵束が覗いている。
この界隈のクラブスタッフらしく、退勤後に車を取りに来た――その最悪な瞬間を、二人組の男に塞がれていた。
「ちょっとでいいんだって! 一杯だけ付き合えよ、なあ!」
酒気を帯びた声。脱色した髪に赤く火照った顔、よれよれのパーカーを着た男が、女の腕を強引に掴んでいた。
女性は身をよじって振り払おうとするが、その手はびくともしない。
「やめて! 放して……これ以上やるなら警察呼ぶわよ!」
怯えと嫌悪が滲む声。しかし男は下卑た笑みを浮かべ、なおも押しつける。
「どうせ暇だったんだろ? こんな時間にクラブ街うろついて……男でも探してたんだろ?」
酔いに任せた強引さ。路地裏では、こうした理不尽な絡みは珍しくない。
夜を渡る女にとって、それはただの「災難」以外の何物でもなかった。
「おい、手加減しろって。見ろよ、完全に引いてんだ。……これじゃせっかくのチャンスが台無しだろ」
相方が口を挟む。酔っていない分だけ冷静に見えるが、その目もまた、女を逃がす気など毛頭なかった。
黒のライダースジャケットを羽織った細身の男。髪は軽く流したショートで、刈り上げの気配はなく、どこか都会風の気取りがあった。
メルボルンの裏通りでは、こうした絡みは珍しくない。酒と欲望に突き動かされ、行き場のない衝動を女にぶつける。夜の街では、よくある歪んだ一幕にすぎなかった。
その横を、ひとりの人物が通り過ぎた。
歩調は乱れず、視線すら向けない。まるで、そこに騒ぎなど存在しないかのように。
――その瞬間。
酔った男の身体が、ふらりと後ろに傾く。
「あ?」
肩がぶつかった。
ほんの、それだけのことだった。
振り返った男の視界に、その人物の姿が映る。
白いインナーに、鮮やかな赤のジレベスト。夜風に揺れる布地の背中には、侍のような兜を被った愛嬌あるキャラクター──ダイガマンの顔が、大胆にプリントされていた。
裾の擦れたジーンズ、履き慣れたブーツ。黒髪は無造作に後ろへ束ねられ、目元には赤みを帯びたレンズのサングラス。
二十歳前後にしか見えない若者。だがその立ち姿は、年齢の枠に収まらぬ落ち着きを放っていた。
場末の路地裏に似つかわしくない、奇妙な存在感。
派手とも地味ともつかぬ装いは、むしろこの場にいること自体が場違いに思えるほどだった。
「……すいません」
低く淡々とした声。
謝罪というより、ただ無用な軋轢を避けるための形式的な一言にすぎなかった。
「おい、どこ行く気だテメェ!?」
だがその声は届かなかった。
男は即座に怒りを爆発させ、赤らんだ顔のまま振り向くと、青年の胸倉を乱暴に掴んだ。
「テメェ、わざとぶつかってきただろ! あ? ふざけてんのかよ!」
赤いレンズに映るその顔は、怒りと酒で歪みきっていた。
「おい、やめとけって……そんなの、ほっとけよ」
相方が慌てたように声をかける。
女の手もまだ掴んだままだ。だがその目は、明らかに今の“揉めごと”を避けたがっていた。
青年はまったく動じないまま、サングラスのブリッジに指をかける。
ゆっくりと押し下げられたレンズの下から、瞳が覗いた。
濁りのない、深い紫。
夜に沈む光の中で、その目はまるで底の見えない湖面のように揺れていた。
視線が合った瞬間、男の心に冷たい指が触れたような錯覚が走る――。
息をすることすら忘れ、ただその瞳に縫いとめられたように立ち尽くす。
「……その手を、どけろ」
囁くような声だった。
それだけで、男の表情が凍りつく。
開いた口が閉じられず、指先が震える。
そして胸倉を掴んでいた手が、まるで操られるように、ゆっくりと離れていった。
「……あ、ああ、すまん……」
さっきまで怒鳴っていた男が、怯えたように一歩下がる。
青年は何も言わず、サングラスを戻し、歩き出した。
「お、おい……? 何だよ、急に……」
相方が怪訝そうに声をかけたその瞬間だった。
殴打音が響いた。
何の前触れもなく、酔っ払っていた男が相方の顔面を殴りつけたのだ。
「てめ、何しやが――っ!」
言いかけたところに、さらに一発。
困惑する男が反撃しようとするが、まるで理性が吹き飛んだような勢いで次々に殴りかかる。
女性はその場に立ち尽くした。
何が起きたのか理解できず、ただ唖然としたまま、暴れる男たちの向こうに消えていく青年の背中を見送っていた。
乾いた殴打音と呻き声だけが路地に残り、夜の風がそれを呑み込んでいく。
◇◆◇
地下のバー《AMADEUS》は、静寂に包まれていた。
淡いシャンデリアの灯りが古びた木のカウンターを照らし、棚にはウイスキーのボトルが整然と並ぶ。
低く流れるジャズと、氷の溶ける音だけが支配する空間。客の姿はなく、カウンターの奥には黒いベストを着た若い男性バーテンダーがひとり、グラスを磨いている。
その静けさを破ったのは、軽やかな鈴の音だった。
重い扉が開き、夜の闇を背にした赤いサングラスの男が姿を現す。
青年は無言で歩み寄り、カウンターの端に腰を下ろす。
バーテンダーは、まるで待っていたかのように視線を上げ、静かに頷いた。
「いらっしゃい」
「……いつもの」
短く告げられた言葉に、バーテンダーがわずかに口角を上げる。
「了解」
ジョッキを取り出し、冷えた液体を注ぎ始める。
琥珀色に近い黒い飲み物が泡を立てながら満ちていき、見るからに苦味の効いたビールか、あるいは何かのカクテルのようにも見える。
静かに、音を立てずにそのジョッキがカウンターに置かれた。
「ルートビア。切らしてなくてよかったよ」
まさかのジュース。
ジョッキの中で泡立つそれは、ビールにも見えるが、当然アルコールは一滴も入っていない。
薬草じみた香りが微かに立ち上り、青年は無言のまま口をつけた。
バーテンダーはその横顔をちらりと見やる。
何度もこの席に座ってきた常連。だが、彼のことを「知っている」と言える自信は一度もない。
感情の起伏をほとんど見せず、何を考えているのか分からない。
それでも、不思議と目を離せない――そんな空気を纏った男だった。
いつも頼むのはルートビア。酒場には似つかわしくない飲み物を、まるで儀式のように静かに口へ運ぶ。
その仕草の一つひとつに、どこか遠い場所の記憶を閉じ込めているようにも見えた。
青年は目を細め、まるでいつもどおりの味を確認するかのように口元をわずかに緩めた。
薬草じみた、どこか懐かしい甘さが喉を通り過ぎる。
それは彼にとって、唯一の“嗜み”とも呼べるものだった。
ひと呼吸ののち、彼はふいに声を落とした。
「……なあ」
彼はジレの下から一枚の写真を取り出し、カウンター越しに差し出した。
「……この男を、見かけたことは?」
バーテンダーは布を持つ手を止め、覗き込む。
数人が並んで写った集合写真。笑顔やピースサインが並ぶ中で、ひときわ目を引くのは肩を並べた二人の男だった。
片方は、今まさに目の前にいる青年――だが、写真の中では別人のように柔らかい笑みを浮かべている。
もう一方は、黄金色の髪をした若い男。快活な表情でカメラを見つめ、首元には青年とお揃いの銀のペンダントが揺れていた。
光を受けたその小さな輝きが、ふたりの絆を物語るように見える。
青年は写真の上に指を添え、静かにその男を指し示す。
「顔は、だいたい覚えてるつもりだ。常連でも一見でも、酒場に来た人間の面影は忘れない。……けど、この男は見たことがないな」
バーテンダーは写真から視線を外し、青年に返す。目に残像を残すように、ほんの少しだけ息を整えて。
「そうか」
淡々とした声。その響きには、あらかじめ答えを予期していたような冷めた色があった。
布でグラスを磨き直しながら、バーテンダーは口を開いた。
「気になるな……彼は、あんたにとって何なんだ?」
青年は一拍置き、写真を見つめたまま低く呟く。
「……俺からすべてを奪った男だ」
その声音には怒りも激情もなかった。ただ、深く沈んだ過去の澱のような重みだけが滲んでいた。
バーテンダーの指が布越しに止まる。だが、無遠慮に問いただすことはしない。察するものがあったのだろう、わずかに目を伏せ、黙ってグラスを棚に戻す。
「だから、探しているのか」
問いというより確認に近い口調。
青年は視線を落とし、淡く吐き出す。
「ケジメをつけるだけだ。済ませなきゃ、先に進めない」
沈黙が一瞬、二人を包む。
バーテンダーはふと写真を持ち上げ、光にかざした。そこに並ぶ笑顔は、今の重苦しい空気とはあまりにかけ離れている。
「それにしては不思議なもんだ。今は憎んでいる相手かもしれないのに……こうして笑い合ってる姿は、まるで固い絆で結ばれた兄弟のようにしか見えない」
青年の口元が、かすかに動く。笑みとも哀惜ともつかぬ影を帯びたものだった。
「……ああ。親友だった」
静かに落とされたその一言が、重い余韻を残してカウンターに沈み込んだ。
その時、小さな鈴の音が、店内に響いた。
入口の扉が押し開けられたのだ。
細く乾いたヒールの音が、静かな床を打つ。
足音はまっすぐに、青年のほうへと向かってきた。
バーテンダーも視線を上げるが、何も言わない。
青年の隣――一つ空けた席ではなく、真横に、ためらいなく腰を下ろす気配。
香水ではない、清潔な石鹸のような香りがふっと漂った。
「カンパリ・オレンジ、お願い。ちょっと濃いめで」
その声を聞いた瞬間、青年の指がわずかに止まった。
その口調は、陽気で、調子外れで、妙に人懐っこい。
そして――聞き覚えがあった。
わざとらしくではない、ごく自然な形での“侵入”。
この女にしかできない芸当だった。
青年はルートビアのジョッキを置くと、横目にそちらを見やった。
細縁の眼鏡、肩に沿わせた三つ編み。
赤紫の髪が柔らかく光を反射し、小花模様のワンピースが椅子に沿って揺れている。
チェック柄のストールがふわりと膝に落ち、まるで季節感を取り繕うかのような気配すらあった。
そしてーー目が合った。
「やっほー、綾人くん。お元気そうでなにより」
口元に浮かぶ笑みは、親しげでありながらも、どこか芝居がかっていた。
まるでずっとそこにいたかのような、馴染みきった距離感。
青年――綾人は、ため息ひとつつくこともなく、ただ無言で目線を戻した。
隣の女性が、どんな目的でここに現れたかを、彼はすでに察していた。
「一条か」
一条東は、ある組織に所属する情報分析官であり、依頼の仲介も請け負う調整役だ。
暗殺から機密奪取に至るまで、裏の依頼の流れを掌握し、依頼主と請負人を繋ぐ。
綾人にとっては数年来の仕事仲間であり、表には出せない数多の任務を共にしてきた。
彼女と再び顔を合わせるのは、二年ぶりだった。
「……ちょっと待って。それが“二年ぶりの再会”に最初に出てくる言葉?」
目を丸くした一条は、わざと大げさに胸に手を当てた。
「せめて『無事だったか』とか『会いたかった』とかあるでしょ! なにその塩対応!」
彼女はカウンターから立ち上がり、両腕を広げて綾人の前に突き出した。
「はい、感動のハグ! ほらほら、遠慮しなくていいのよ?」
綾人はちらりと横目で見るだけで、表情ひとつ変えずにグラスを口に運ぶ。
「……スルー!? ねえ、完全スルー!?」
一条はその場で肩を落とし、わざとらしく震える声を出した。
「信じられない……私、一年もかけて探し出したのに、ハグのひとつもなし?」
だが次の瞬間、ケロリと顔を上げてニヤリと笑う。
「――うん、やっぱり。そういう反応すると思った」
肩すかしを食らうのも、もう慣れっこだ。これが綾人で、これが二人の距離感なのだ。
一条はカウンターに腰を戻すと、出されたばかりのカンパリオレンジに手を伸ばした。
赤と橙がグラスの中で鮮やかに混ざり合っている。彼女はストローをくるりと回してから、軽く唇を寄せて一口。
わざとらしい仕草はない。ただ、飲み干す姿すらどこか余裕をまとっていた。
沈黙がふたりの間を満たす。氷がグラスの内側でかすかに鳴った。
「……なぜ、俺がここにいるとわかった?」
綾人の声は静かだったが、その奥にわずかな疑念が混じる。
一条は、氷の溶けきったグラスをくるりと回し、口角を上げた。
「簡単じゃなかったわよ。一年かけて、世界中の“ざわめき”を拾い集めたの。南米でも東欧でも、妙な噂が立つたびに――必ず“未確認のダイガマン”の影があった。目撃証言も、映像の断片も、どれもバラバラで掴みどころがない。でもね、全部を地図に落としていったら……気づけば一つの“軌跡”になってたのよ」
彼女はグラスを軽く傾け、氷の音を響かせる。
その横顔には、情報の海を泳ぎ切った者だけの確信があった。
「で、その終点がここ、《AMADEUS》の近く。――ようやく、捕まえたってわけ」
綾人は黙ってジョッキの取っ手を指で撫でた。
追跡されることには慣れていた。だが、彼女に見つかったのは――妙に納得がいく。
結局のところ、この女は昔からそういう人間だった。
情報の匂いを嗅ぎつけ、無数の点を線に変えて、獲物を逃さない。
だからこそ、彼は何度も彼女の手を借りたのだ。
……そして今も、その鋭さは少しも鈍っていない。
「……二年もかかって、ようやく俺を捕まえたってわけか。情報分析の天才様も、老けたんじゃないか?」
にやりと口角を上げる綾人に、一条はぴたりと眉を吊り上げる。
「はぁ!? 誰が老けたって? まだ二十五よ、ピチピチの現役なんですけど! あんたが地球一周ペースで移動するから、こっちは地図塗り替えるのに必死だったの! 航空券代、宿代、時間――全部返してもらいたいくらいよ!」
一条はカウンターを軽く指で叩きながら、じとりと綾人を睨む。その表情は怒り半分、呆れ半分――そして、再会の安堵がほんの少し混じっていた。
「……勝手に走り回ってただけだろ。俺の知ったことじゃない」
その一言に、一条の眉がぴくりと動く。
唇の端にあった笑みが引きつり、代わりにわずかな不満が滲んだ。
綾人はそんな彼女を一瞥することもなく、ただルートビアノの泡を見つめていた。
「まったく、アンタってやつは……。それにしても、ほんと変わらないね。バーで“いつもの”がルートビアって、ちょっと子供っぽくない?」
冗談めかした声とともに、肩をすくめる仕草。まるでお姉さんが年下の弟をからかっているようだった。
綾人は眉ひとつ動かさず、静かに返す。
「ガキ扱いするな。言っておくが――俺の方が年上だぞ」
「……あら?」
一条がグラスを持ちかけた手を止め、きょとんとした表情を浮かべる。
そしてふっと口角を上げた。
「あら、それを“自分の口で言う”日が来るとはね。……ってことは、私、タメ口でずっと失礼なことしてたってわけ?」
「別に気にしてない」
「ふふん、それならいいけど。じゃあ、次からは“綾人さん”って呼ぼうか?」
わざとらしく背筋を正し、芝居がかった口調でそう言う。からかい半分、照れ隠し半分といった声音だった。
「……やめろ、鳥肌が立つ」
ジョッキを口に運びながら、綾人はわずかに眉をひそめる。
一条はその反応に吹き出し、「ゴメンゴメン」と軽く手を振って謝った。もちろん悪びれた様子などない。
「ちょっとからかいたくなるのよ、あんた見てると。無口でクールぶってるくせに、こっそりルートビア好きだなんて……そのギャップ、反則でしょ」
綾人は応じず、ただグラスを手にしたまま目元だけを伏せる。
一条はそれを確認すると、すぐに話題を切り替えた。今度は少しだけトーンを落としながらも、どこか楽しげに――。
「……それで」
綾人が低く口を開いた。
「わざわざニ年もかけて俺を探し出したのは……からかうためか?」
「ち、違うわよ。私は――」
「言っておくが、戻る気はない」
彼女の言葉を遮るように、綾人は淡々と断言した。
「ちょ、まだ最後まで言ってないんだけど!?」
思わず一条が身を乗り出す。眉を吊り上げ、悔しそうに唇を尖らせるその姿は、シリアスな空気を一瞬だけ和らげた。
しかし綾人の表情は揺らがない。
――約二年前。
綾人は請負人として「ディーサイド」と呼ばれる非公然組織に身を置き、一条と多くの任務を共にしていた。
国にも企業にも属さず、金さえ積めばどんな案件でも引き受ける――機密奪取から紛争の火種づくりまで、依頼内容は常に境界線の外側。
その中でも綾人は“切り札”として扱われ、危険度の高い任務ばかり回されていた。
だがある日、突然「やめる」とだけ告げる電話を寄こし、理由を尋ねた一条に「身体がもたない」とだけ言い残した。
連絡も足取りも断ち切り、そのまま綾人は姿を消した。
「……あの時、言っただろ。もう続けられないって」
綾人は、自分の右手を静かに見つめた。
グラスを持っていた指先が、わずかに震えていた。
それは戦いの後遺症か、老いか、あるいはもっと深い何かなのか――けれど、一条は言葉を失っていた。
「ダイガマンとして活動できる時間が……どんどん短くなってる。今は、ほんの数分が限界だ。力も、身体も……鈍くなってる。ディアマトズとやり合ってた頃と比べると、明らかに落ちてるのがわかる」
綾人はグラスから手を離し、少しだけ視線を伏せた。
そして短い間のあと、淡々と言葉を継いだ。
「……それと、あの組織じゃヤツには近づけないって悟った。五年いて成果ゼロじゃ話にならない。だったら、自力で探したほうがまだマシだ。だから去った。ただ、それだけだ。――だから俺に構うな。ほっといてくれ」
その言葉は弱音ではなく、ただ積み重なった現実を静かに突きつける報告だった。
一条は黙って耳を傾けていたが、やがて小さく息を吐き、ぽすりと背もたれに寄りかかった。
そして両腕を胸の前で組み、わざとらしく横を向く。
「……連れ戻す気なんて、最初からなかったわよ。どうせ声かけたって、あんたが戻るわけないってわかってたし」
綾人は無言でグラスを手に取り、冷えたルートビアを一口含む。炭酸の泡が舌を刺す感覚だけが、苛立ちを和らげてくれる。
そして、わざとらしいまでに重たい吐息をもらし、呆れたように視線を投げた。
「じゃあ、なおさら何しに来たんだよ……」
一条はぷいと横を向いたまま、ほんの一瞬だけ口元を引きつらせた。
拗ねた態度を保とうとしながらも、誤魔化せない緊張がこぼれたのだ。
やがて観念したように肩を落とし、バッグの取っ手を指先で強く握りしめると、プロの声色に切り替えて綾人の方へ向き直った。
「――依頼よ。“瞬殺魔眼”の綾人を――そう名指しだった。久々にその名を聞いた時、私でも少し、背筋が冷えたわ」
綾人の眉がわずかに動く。
「……依頼?」
低く投げられた問いに、一条は小さく頷き、視線を伏せた。
「……半年前よ。私宛てに直接、依頼が届いたの。組織経由じゃなくてね」
一条はそこで一度息を整え、指先で眼鏡の位置を直した。
「依頼主については、私だってほとんど知らされてない。顔も名前も一切伏せられたまま。分かってるのは……ただの金持ちや裏社会の親玉なんかじゃないってことくらい」
「依頼、ねえ……。まさか本気で俺が受けると思ってんのか?」
揶揄するような声音に、一条がわずかに顔を曇らせる。
「二年探して引っ張り出した先がこれか。笑えるな。俺はとっくに降りたんだよ。依頼主が誰だろうが、関係ねぇ」
指先でテーブルをコツコツ叩きながら、冷たい視線を送る。
「……まあ、どうしてもってんなら――『断られた』って丁寧に伝えとけ」
綾人はグラスを軽く傾け、炭酸の抜けかけたルートビアを喉に流し込む。氷が小さく音を立て、彼の興味のなさを代弁するかのようだった。
「え〜? 本当に? 勿体ないなぁ。だってさ、今回の依頼――報酬が、ちょっと特別なんだよ?」
一条はわざと声を弾ませ、細縁の眼鏡を指で押し上げる。軽快な口ぶりに隠された企みを、にやりと笑う口元が物語っていた。
「どうせ、ゼロの数を並べるだけの話だろ」
綾人は鼻で笑い、グラスをテーブルに戻す。
「ちっちっち。そう決めつけるのは早いんじゃない?」
一条は指先でリズムを刻みながら、じれったく焦らすように言葉を続ける。
「ねぇ、本当にいいの? これを蹴るなんて、後悔すると思うよ?」
「……何度でも言う。興味ねえ」
綾人は淡々と答える。
綾人の拒絶に、一条の唇がわずかに吊り上がる。
その返答に、ようやく一条の笑みが深まった。
テーブルに片肘をつき、グラスの水滴を指でなぞりながら、彼女はゆるやかに身を傾ける。
そのまま綾人の耳元へ唇を寄せ、吐息がかかるほどの距離で囁く。
「――じゃあ。報酬が“ニコラス”――本人だとしたら? それでも、興味ないって言える?」
その名が、熱を帯びた息とともに耳朶をかすめた瞬間、綾人のまぶたがぴくりと揺れた。
氷のように沈着だった瞳がわずかに見開かれ、冷えた空気が一気に張り詰める。
酒場のざわめきが遠のき、グラスの中で氷が当たる乾いた音だけが、異様なほど鮮明に響いた。
しかし、その硬直はほんの一瞬のことだった。
綾人は静かに息を吐き、何事もなかったかのように視線を落とした。口元には冷ややかな諦念が戻っている。
――過去に何度もあった。
「ニコラス」の名を報酬に釣り餌のようにぶら下げられ、いざ行ってみれば、ただの同姓同名の別人や、偽情報に踊らされるだけ。
それを知っているからこそ、期待などしない。
「その名前を出せば、俺が食いつくとでも思ったのか。――悪いが、そう何度も同じ手にかかるほど、俺は甘くない」
一条はわずかに眉根を寄せ、唇を引き結ぶ。
苛立ちを抑え込むように、深く息を吸い込み、わざとゆっくりと吐き出した。その仕草は、自分の言葉に確信を持っている者の余裕にも見えた。
「……ほんっと、頑固。どれだけ疑り深いのよ。わたしがわざわざ二年も追いかけてきて、ただのハッタリで済ますと思う?」
言葉には苛立ちと、しかしどこか確信めいた響きがあった。
唇の端に小さな笑みを浮かべながら、彼女は肩に掛けたバッグに手を伸ばす。
ゆっくりと取り出したのは、一枚の薄型タブレット。
画面を起動し、数回スワイプしたあと、無言で綾人の目の前のテーブルに差し出した。
「だったら見てよ。これが証拠。あの人、今も生きてるってね」
画面に映し出されたのは、数枚の映像だった。
無機質なコンクリートの壁。何もない薄暗い空間に、ただひとり椅子に縛り付けられた男がいる。
上半身は裸。鋼のように鍛えられた筋肉が浮かび上がり、その肉体がまだ衰えていないことを物語っていた。
だが、首には重々しい金属の首輪がはめられ、両腕は後ろ手に拘束、足首には太い枷。
まるで猛獣を押さえ込むための檻の中にいるかのようだった。
――ニコラス・ハート。
薄暗い照明の中でも、その金色の髪が鈍い光を帯びている。
乱暴に伸びた前髪が額にかかり、影になった眼差しは獰猛な光を宿したまま、カメラの向こうを鋭く睨み返していた。
そして、その頬には――かすかに、斜めに走る薄い傷跡。
綾人の表情がわずかに揺れる。
その瞬間、彼は無意識にテーブルのタブレットを掴み取っていた。
画面に目を凝らし、わずかに見開かれた瞳が映像に吸い寄せられる。
椅子が軋む音とともに、綾人はゆっくりと立ち上がった。
あの傷。――あの夜、自分が斬りかかったときに刻んだものだ。
それから忽然と姿を消し、手がかりはぷっつり途絶えた。
16年――執念のように追い続けた。
なのに、今。こうして首輪を嵌められ、裸のまま囚人のように縛られた姿で画面の中にいる。
姿も、眼差しも、あのときのままで。
そしてその傷が、“本人”であることを否応なく示していた。
長年張り詰めていた諦めと執着が、この映像に揺さぶられていく。
それは、ずっと探し続けてきた亡霊が、現実の影となって浮かび上がってきたような感覚だった。
胸の奥がわずかに熱を帯びる――だが次の瞬間、その熱を理性が冷たく押し沈めた。
「……この映像。いつだ。どこで撮った」
綾人の声は低く、研ぎ澄まされた刃のように冷たい。
画面を睨みつけながらも、瞳の奥に警戒の色がわずかに滲む。
一条は肩を竦め、目線だけでタブレットを示した。
「そこまでは、私も知らない。――依頼主から渡されたのは、この映像だけよ」
軽口めかした声音だったが、その裏に疲労が混じる。
「ただ、一年前――奴は“捕まった”。それは事実」
綾人の目が細くなる。
だが疑念は消えない。映像だけなら作り物でも可能だ。
一条は座ったまま、立ち上がった綾人を見上げるようにして、タブレットを指先でスライドさせた。
「フェイクだと思ってるんでしょ。……なら、これを見るといい」
画面が切り替わる。
そこに映っていたのは、拘束時に押収された品々の写真だった。
衣服、奇怪な形をした長剣、そして――銀鎖に吊るされた小さなプレート。
プレートの表面には、重ね合わされた剣と翼を象った紋章が刻まれていた。
視線は長剣を素通りし、ペンダントに釘付けになる。
綾人の胸の奥で、何かが爆ぜる。
瞬間、呼吸が浅くなり、視界がじりじりと滲む。
――それは、本来なら仲間の首にしか揺れているはずのない印。そして、いま綾人の首にかかっているものと、まったく同じだった。
「アイツ、まだ……持ってやがったのか」
吐き出された声は震えていた。怒りで、憎悪で、そして侮辱に打ちのめされた屈辱で。
脳裏の奥で、長年閉ざしてきた扉が軋みを上げて開くのを感じた。
忘れようとして、忘えられなかった記憶。
封じたはずの光景が、血の匂いとともに蘇る。
――十六年前。
血に沈む瓦礫の街で、信じた背が刃となった。
仲間の叫びが断ち切られ、絆も未来も踏みにじられた。
赤く染まる空、潰れた声、手の中で消えていく温もり。
崩れ落ちた身体を抱きとめた腕が、ずしりと重い。
血のぬめりが指の隙間を伝い、胸元を赤く染めていく。
彼女の吐息がかすかに震え、途切れそうな鼓動が手のひらに伝わる。
その小さな身体を呼び止めるように、綾人はただ抱き締めるしかなかった。
――……や、と……
耳の奥で、その声が確かに響いた。
それは息よりも儚く、けれど焼き付くように鮮明だった。
名を呼ばれた瞬間、世界の音がすべて消える。
熱も痛みも、ただその一言だけを残して凍りつく。
忘れようとして、忘れられなかった。
十六年の間、夜の底で何度も聞いた声。
それを奪った男の瞳だけが、今も焼き付いて離れない。
そして――奪ったその手で、仲間の証を未だに汚しながら持ち続けている。
その事実が、綾人の逆鱗を抉り抜いた。
――ニコラァァス……!
心の奥で、名が裂けるように叫ばれた。
怒りは、悲鳴にも似た衝撃となって迸った。
血が沸騰する。視界が赤に染まる。理性など、一瞬で吹き飛んだ。
長く凍っていた憎悪が、砕け散り、灼けた刃となって心臓を貫く。
――だが、その刃はまだ抜かれない。
綾人は沈黙したまま、タブレットの画面をじっと見つめていた。
無機質な光が瞳に映り込み、そこに宿る怒気を誰も読み取ることはできない。
指先がかすかに震える。それが唯一、彼の感情を示す微かな兆候だった。
その間、一条は気づくこともなく、わずかに眉を寄せ、淡々と、しかし確信を込めて言葉を続けた。
「……その目つき。ようやく信じたって顔ね。そこまで見入るなんて、やっぱ本物だったんでしょ?」
軽く笑って、肩を竦める。
「依頼主も抜け目ないねぇ。あんたを金で釣れないって分かって、わざわざ過去まで掘り返した。そして見つけたのよ――“唯一の餌”。任務を果たした暁には、“ニコラスを差し出す”。……そう書かれてたわ。まるで、あんた専用の報酬みたいでしょ?」
苦笑と共に、指先でこめかみを押さえる。
「おかげで私が二年間、必死にあんたを探す羽目になった。しつこく“綾人を連れてこい”って。行方を晦ましたあんたを、どれだけ探すのが大変だったか……本当に嫌に――」
一条の言葉が途切れたその瞬間だった。
綾人の胸の奥で膨れ上がった怒りが、ついに臨界に達した。
音もなく立ち上がった衝動が、筋肉を駆け抜ける。
そして――。
甲高い破裂音が、地下の静寂を切り裂いた。
綾人の両手にあったタブレットは、まるで紙細工のように真っ二つに折れ、破片と共に黒い液晶の粉が飛び散る。
画面の光が一瞬、閃光のように弾けて消えた。
硬質な破片が床に跳ね、カウンターの端で小さく転がる。
作業していたバーテンダーが思わず手を止め、グラスを落としそうになりながら、目を見開く。
一条も言葉を失い、わずかに息を呑んだ。
場の空気が一気に凍りつき、時間が止まったかのように誰も動けない。
沈黙が、数秒続いた。
そして――震えるような声が漏れる。
「……あ、あやと……?」
無意識に出たその声に応えるように、綾人がゆっくりと顔を上げる。
赤いレンズがぎらりと光を弾き、その奥に潜む瞳が一瞬、透けて覗く。
そこには、焼き尽くすほどの殺意が渦を巻いていた。
「……依頼の内容を言え」
一条の背筋に、ひやりと冷たいものが走る。
何年も彼と仕事を共にしてきたが、こんな表情は一度も見たことがない。
無駄に目立つことを嫌い、どんな依頼も冷めた態度で淡々とこなす――そんな綾人しか知らなかった。
だが今目の前にいるのは、まるで獣のように殺気を放ち、抑え切れぬ憎悪を剥き出しにした別人。
ニコラスという名に、彼がこれほどの感情を抱えていたとは……。
彼を長年知っているはずの一条でさえ、その奥底にある業を、何ひとつ知らなかったのだと思い知らされる。
一条は思わず一歩引き、肩を竦めながら口を開く。
「……あなたに回ってきたのは、暗殺の依頼だよ」
「暗殺、ね」
綾人の声は低く、だが確かな熱を帯びていた。
その双眸はまっすぐに一条を射抜く。
「……で、誰をやればいい?」
綾人の視線が鋭く突き刺さる中、一条は小さく息を吐いた。
肩に掛けていたバッグへと手を伸ばし、中から薄型のタブレットを取り出す。
先ほど綾人に握り潰されたものとは別に用意していた、予備の端末だ。
ロックを解除し、指先で何度かスライドする。
画面に映し出されたのは、一人の少年の顔写真。
黒髪に、赤みを帯びた琥珀色の瞳。
まだ幼さを残す輪郭に、不思議と大人びた落ち着きを漂わせた眼差し。
綾人の記憶にはない顔だったが、なぜかどこか既視感を伴う整った容貌だった。
写真の下には、年齢や住所、学校名などの基本的な情報が並ぶ。
詳細に調べ上げられた形跡は明らかだが、今必要なのはそこではない。
綾人の視線が、じわりと画面から一条へと移る。
一条は無言で画面を押し出し、わずかに唇を強張らせて告げる。
「――阿門逢煌。今回のターゲットよ」