nightrexのブログ

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 その頃、南半球の大地からはるか離れた極東の島国で――。

 

 雲ひとつない青空が、背の低い丘をまるごと抱きしめていた。
 初夏の陽光はやわらかく、草原を金色に染め、丘の中腹に建つ白い建物を静かに照らしている。

 外壁には、青を基調にした大きな壁画が描かれていた。
 空へと開く門の向こうで、子どもたちが手を取り合い、笑いながら歩いていく――そんな絵だ。
 正面の看板に刻まれた《青空の門》という文字も、どこか柔らかな線をしていた。

 草原には、子どもたちの声が満ちている。
 ボールを追いかける少年たちの歓声。
 日だまりでシャボン玉を飛ばす少女たちの笑い声。
 転んだ子を、年上の子がそっと気遣う姿もあった。

 まるで世界が丸ごと、“平和”という名の毛布で包まれているかのようだった。

 だが、この穏やかな場所には、優しい名前とは裏腹の理由がある。

 ここは《青空の門》。
 首都ジャパンシティ南区画に設けられた、孤児院兼保護施設だ。

 武装勢力ディアマトズの侵攻によって親を失った子。
 戦火の混乱に巻き込まれ、家族と引き離された子。
 そして、遠い異世界から流れ着き、帰る場所をなくした子。

 行き場を失った子どもたちを受け入れるため、この場所は造られた。

 晴れ渡る空の下に広がるこの小さな世界は、傷を抱えた子どもたちが、ようやく“続きを生きる”ために辿り着く――

 ひとつの門でもあった。

 

 ふと、草の間に微かな足音が響いた。最初は風に紛れた音かと思ったが、次第にその音は確かに近づいてきているのがわかる。
 子どもたちの中で、何人かがその違和感に気づき、無意識に足を止めた。

 

「…あれ?」

 

 小さな声で呟いた女の子が、背後を振り返る。すぐに他の子どもたちも視線を向けた。
 草原の端、遠くの小道を歩く一人の人物が見える。その姿は、ダンボールを三つ重ねて両手で支え、目の前に大きなタワーを作ったような不安定な形で歩いていた。
 ダンボールの山が人物の顔を完全に覆い、素顔は見えない。だが、子どもたちはその歩き方にすぐに気づいた。

 その人物の歩みは、慌てず騒がず、どこか頼りなくも安定していた。草を踏みしめる音と共に、ダンボールの擦れる音が微かに響く。

 

「アキラ!」


 突然、近くの男の子がその人物を見上げ、声を上げた。

 

「アキラだ!」


 周りの子どもたちが次々にその名前を繰り返す。

 彼らの声に反応するかのように、アキラと呼ばれる人物は足を止め、ダンボールを一度その場で少し調整する。
 その姿に、子どもたちの顔に自然な安心感が広がっていった。

 

「……おーい、そんなに一度に呼ぶなって。落としそうだろ」

 

 冗談めかした低めの声がタワーの向こうから聞こえた。
 次の瞬間、アキラはゆっくりと膝を折り、腕の中のダンボールを地面にそっと下す。

 ようやく視界が開け、その姿が草原の光の中に現れる。

 現れた少年──逢煌(あきら)は、黒髪を風に揺らし、赤みを帯びた琥珀色の瞳を細めて子どもたちを見渡した。

 十七歳の少年らしい柔らかさを残しながらも、すらりと伸びた体は大人顔負けの高さを持ち、陽の下に立つとひときわ存在感を放つ。

 半袖の軽いシャツに、動きやすい長ズボン。季節に馴染むその格好は、草原の光景に自然に溶け込んでいた。

 

 「よし。危なくないから、ゆっくり来い」

 

 逢煌が笑みを含んだ声でそう言うと、待ちきれなかった子どもたちが一斉に駆け出した。
 「アキラ!」「ねえ聞いて!」「今日の試合ね!」
 四方から飛びつくように寄ってくる子どもたちを、逢煌は少し驚いたように目を見開きながらも、しっかりと優しく受け止めた。
 その光景は、まるで彼がいるだけで世界が少し明るくなったように見えた。

 

「ねぇねぇ、今日は何持ってきたの!?」


 待ちきれない様子の男の子が、逢煌の前に小さく跳ねるようにして近づいてくる。
 逢煌は苦笑しつつ、積んだ段ボールのうち一番上の箱に手をかけた。

 ――バサリ。

 蓋を開けた瞬間、そこから覗いたのは色とりどりのプラモデル、カードゲーム、そして少し古いがまだ十分遊べそうな携帯ゲーム機だった。

 「うわっ……!」「マジで!?」「これ、遊んでいいの!?」
 瞬く間に男の子たちの目が輝き、箱の周りに群がる。
 一人がプラモデルの箱を手に取り、もう一人はゲーム機を見つめて口をぽかんと開けている。
 逢煌は慣れた手つきで「壊すなよ」と軽く釘をさしながら、嬉しそうに跳ねる彼らを見守った。

 そして、逢煌は二つ目の段ボールへと手を伸ばす。

 

「こっちはね……ほら」

 

 ゆっくり開けられた箱の中には、ふわりと柔らかな色の動物のぬいぐるみがぎっしりと詰まっていた。
 ウサギ、クマ、子猫、丸っこいアザラシ――どれも、抱きしめるだけで安心しそうな優しい表情をしている。

 

「……かわいい……!」


 最初に声をあげたのは、小柄な女の子だった。

 その声を合図にしたように、他の女の子たちもそっと顔を寄せてくる。

 

「この子、フワフワ……!」


「見て、こっちのウサギ、耳が長いよ!」


「アキラ、これ全部くれるの?」

 

 ぬいぐるみを抱きしめた女の子たちの頬には自然と笑みが咲き、逢煌の周りに柔らかな空気が広がる。

 そんな彼女たちを見て、逢煌はわずかに目を細めた。
 それは大げさなものではないが、どこか肩の力が抜けた、穏やかな微笑だった。

 

「あぁ、全部だよ」

 

 男の子たちが箱をのぞき込み、歓声をあげていたそのとき。
 一人のわんぱくそうな少年が、箱の奥にある白いゲーム機を引っ張り出して眉をひそめた。

 

「……キューボックス3?。えぇ~、なんだよコレ。最新のヤツじゃないの?」

 

 ――いまや“手に触れない”バーチャル体験型ゲームが主流だ。
 専用ゴーグルをつければ、視界一面に戦場や冒険の世界が広がり、腕を振るだけで剣を振り、足を踏み出すだけで本当に移動できる。
 子どもたちにとっての“ゲーム機”と言えば、もはやそういう没入型こそ当たり前になっている。

 少年――ユウトが、素直すぎる不満をそのまま口にするのも無理はなかった。

 

「悪かったな。俺に“今どきのバーチャル最新機”なんて買えるわけないつーの」

 

 手近のダンボールに腰を預けながら、ぼそっと返す。

 ユウトは唇を尖らせたまま、ゲーム機を両手でひっくり返す。
 それは、モニターに繋いで遊ぶタイプの古い据え置き機だった。
 最大十人まで無線コントローラーに対応しており、当時は“みんなで集まって遊べるゲーム機”として人気だったが……十年の時代の差は大きい。

 

「でもさー、キューボックス3って、オレが生まれるより前のやつじゃん? 古いじゃん」

 

 その言葉に、逢煌がぴたりと動きを止め、ゆっくりとユウトへ視線を向けた。

 一瞬だけ鋭く光る――が、次の瞬間、その口元がわずかに歪む。

 まるで「甘いな」とでも言いたげに、逢煌は小さく息を吐き、ニヤリと笑った。

 

 「……古いからって、見くびるなよ」

 

 低く、よく通る声だった。

 次の瞬間、逢煌は箱の中をガサガサと漁り、一枚のゲームソフトを取り出して掲げた。

 

「――『魔王大戦』」

 

 パッケージの中央には、巨大な魔王の影と勇者たちが剣を交えようとするシルエットが描かれている。

 

「これな、表面だけ見るとただの古いRPGに見えるだろ? でも実際は“魔王の座”を巡って、プレイヤー同士でも戦略が絡み合う超本格派なんだ」

 

 子どもたちが、逢煌の手元へ顔を寄せる。

 

「魔王側なら、魔物を配下にして国を広げる。どこを攻めるか、どの街を残すかも全部選べる。勇者側なら仲間を集めて世界を巡りながら、どの魔王を先に倒すかで物語が変わる」

 

 逢煌はパッケージを指で軽く叩いた。

 

「同じ選択は二度とできない。だから周回するたび、別の世界になる」

 

「……へぇ」

 

 誰かが、小さく声を漏らす。

 

「で、次はこれだ」

 

 逢煌は別のケースを取り出す。
 宇宙を背景に、妙に間の抜けた“羊の怪物”が描かれていた。

 

「宇宙から降ってくる羊型の怪物を撃ち落とすシューティング。見た目はふざけてるけど、油断すると一瞬で囲まれる」

 

「羊……?」

 

「そう、羊。でも数が増えると地獄だぞ。撃つ角度とタイミングを間違えると、画面が白く埋まる!」

 

 子どもたちの間に、くすくすと笑いが広がる。

 

「最後はこれ」

 

 今度は、ひときわ大きなパッケージ。
 巨大ロボットと怪獣が、街の真ん中で激突している絵だ。

 

「巨大ロボットを操作して、怪獣と戦う。ただ殴るだけじゃなくて、腕や脚、武装を自分好みに組み替えられる!」

 

 逢煌の声が、少しだけ熱を帯びる。

 

「街の中で戦うから、ビルは壊れるし、道路も崩れる。味方と共闘もできるし、対戦もある。同じ機体でも、使う人でまったく動きが変わるんだ」

 

 説明が終わる頃には、子どもたちはすっかりケースの周りに集まっていた。

 

「……古いのは古いけど。まあ、思ってたよりは面白そうじゃん」

 

 ユウトは腕を組み、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
 だが、その目はさっきよりもずっと真剣にパッケージを追っていた。

 逢煌はその様子を一瞬だけ眺め、それから腰を落とした。 

 ユウトと同じ高さまでしゃがみ込み、視線を合わせる。 

 

「“思ってたより”な」 

 

 静かな声だった。責めるでも、笑うでもない。

 

「やってもいないうちから、決めつけるのは早いぞ」 

 

 ユウトが、わずかに目を瞬かせる。 

 

「古いとか、新しいとかは後だ。 面白いかどうかは――触ってから決めろ」 

 

 逢煌はそう言って、ユウトの額を軽く小突いた。

 

 「それができるやつの方が、遊びも人生も得する」

 

 ユウトは一瞬きょとんとした顔をしてから、ぷいと視線を逸らす。 

 

「……わかってるし」 

 

 だが、もう一度だけ、パッケージに目を戻した。

 

「じゃあさ.......」

 

 ユウトが一歩前に出て、拳を握る。

 

「俺、『魔王大戦』やりたい! 勇者編! 一番最初に魔王をぶっ倒すのは俺だから!」

 

「えー! じゃあ私、魔王やりたい!」

 

「ずるい! 僕も!」

 

 一気に火がついたように、子どもたちが動き出す。

 

「羊のやつがいい!」

 

 今度は、女の子が目を輝かせて声を上げた。

 

「宇宙から降ってくる羊を撃つやつ! あれ、絶対みんなでやったほうが面白いじゃん!」

 

「じゃあ俺はロボ!」

 

 別の子が負けじと叫ぶ。

 

「街で戦うやつ! ビル壊れるし、機体もカスタムできるんだろ!? あれ、対戦しよ!」

 

 一気に火がついたように、子どもたちが動き出す。

「全部持ってこう!」「決めるのは後で!」
「テレビつなぐ!」「コントローラー足りる!?」

 ゲームソフトのケースを抱え、キューボックス3本体と一緒に、わいわいと孤児院の建物へ駆け戻っていく。
 廊下の奥へ吸い込まれていく声は、騒がしくて、楽しげで、少しだけ眩しかった。

 逢煌は、その後ろ姿を見送りながら、どこか誇らしげに、静かに笑った。

 

 ゲーム機を抱えて走り去る男の子たちとは対照的に、その場に残った二人の女の子が、そろそろと逢煌へ近づいてきた。  

 ひとりは明るい栗色の髪をツインテールに結んだ女の子で、胸の前に大きめのスケッチブックをぎゅっと抱えている。  

 もうひとりは、小さな丸眼鏡をかけた黒髪の子で、色鉛筆のケースを大事そうに両手で持っていた。  

 

「ねぇねぇ、マジキュアのルビー書いて!」  

 

 ツインテールの子が、ぱっとスケッチブックを持ち上げる。  

 

「猫を上手に書ける方法、教えてほしいの」  

 

 突然の頼みごとに、逢煌は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに柔らかく口元を緩めた。
 青空の門に飾られている壁画とロゴ――あれを描いたのが、実は彼だ。
 子どもたちが「上手い人」として真っ先に思い浮かべるのも、無理はなかった。

 

「いいぞ。なんならルビーだけじゃなくて、他のマジキュアも描いてやるよ。猫もな、コツ分かれば犬でもウサギでも描けるようになるぞ。後でゆっくりやろう」

 

 そう言って、軽く親指を立ててみせる。

 二人の女の子はぱあっと顔を輝かせ、約束をもらえたのが嬉しいのか、スケッチブックと色鉛筆を抱きしめて跳ねるように喜んだ。

 その瞬間だった。

 

「アキラーーラぁーーっ!」

 

 勢いよく後ろから飛びついてきた小柄な男の子が、逢煌の首に両腕を回し、背中にぴたりと張りつくようにしがみついた。

 

「あとで鬼ごっこしようぜ! アキラ以外、みんな鬼ね!」

 

 息を弾ませながら叫ぶ。

 

「わかったわかった。後でな、後で。まずはお絵描き組からだって」

 

 逢煌がそう言って男の子の頭をぽんぽんと撫でると、今度は別の方向から小さな影がぱたぱたと駆けてきた。

 

「アキラ! ゲーム一緒にやろ!」

 

「ねぇ、紙飛行機どっちが遠くまで飛ぶか勝負しよ!」

 

「アキラ、サッカーのキーパーやって!」

 

 次から次へと、色んな声が逢煌の周りへ吸い込まれるように集まってくる。

 逢煌は目を細め、困ったように笑いながら両手を軽く上げた。

 

「はいはい、全員いっぺんには無理だって。順番、順番なー!」

 

 その声に、子どもたちの笑いが重なり、青空の下、逢煌のまわりに輪ができていく。

 子どもたちの声がますます大きくなり、逢煌の周りが小さな渦のように騒がしくなりはじめた、そのとき。

 

「こらこら、みんなー! 逢煌くんを取り囲まないの!」

 

 ぱん、と手を叩く軽やかな音とともに、明るい声が草原に響いた。

 振り返ると、若い女性が立っていた。
 黒髪を高い位置でポニーテールに結び、優しげな雰囲気のエプロンを身につけた、柔らかい笑顔の先生。

 孤児院《青空の門》の職員、前島(まえしま)百合子(ゆりこ)だった。

 

「もうすぐお昼なんだから、いったん中に入りなさーい。遊びはそのあとね!」


 百合子が両手を広げると、子どもたちは「あーい……!」と不満そうに声を揃えつつも、素直に従いはじめる。

 

「逢煌くんもありがとうね。相変わらず人気者なんだから」


 ふんわり笑いながらそう言う百合子に、逢煌は頭をかきつつ照れくさそうに答えた。

 

「いえ……まぁ、慣れてますから」

 

 子どもたちのざわめきがそのまま建物の中へ流れ込み、草原には心地よい静けさが戻っていった。

 昼食を終えたあと、逢煌は子どもたちとの“約束”を一つひとつ消化していった。

 スケッチブックのページに『マジキュアのルビー』を描き、猫を描くコツを丁寧に教え、鬼ごっこに参加し、古いゲーム機のセッティングを手伝い、風に消えるシャボン玉を一緒に追い、そして、勉強の時間になれば机を囲んで算数を見てやる。

 気づけば、太陽は少し傾き、影も長く伸び始めていた。

 今、子どもたちは別の職員とともに外の広場でまた思い切り遊んでおり、施設内は少しだけ静かになっていた。
 時計は三時を少し過ぎている。
 今日の予定は、もう終わりのはずだった。

 だが逢煌は、そのまま帰るつもりはなかった。
 いつものように――帰る前に、ひとつ寄る場所がある。

 孤児院を出て、坂を下った先。

 ガラス張りの外壁を持つ、白く大きな建物が見えてくる。

 この辺り一帯で、もっとも設備の整った総合医療センターだ。

 子どもたちの笑い声が、完全に背後へ溶けていく。

 逢煌は無意識のうちに歩調を落とし、建物を見上げたまま、小さく息を吐いた。

 

 薄い光が満ちる静かな区画。  壁際には規則正しく点灯するパネルと、淡く脈打つモニター。

 その脇に置かれたベッドには、ひとりの少年が背を預けて座っていた。灰色がかった髪はところどころ色が抜け落ちたように淡く、細いフレームの眼鏡越しに、彼はガラスの向こうを眺めている。  

 窓の外では、他の子どもたちがはしゃぎ声を上げて駆け回っていた。  

 その姿を、少年は黙って追った。嫉妬というほど露骨ではないが、胸の奥にかすかな「届かない距離」を抱えているのが、表情の端から読み取れる。  

 彼の手首には細いケーブルが接続され、透明な管を通して光の粒が流れるように、隣のモニターへと情報が送られている。機器は静かに鼓動のようなリズムで光り、少年の周囲だけ別の時間が流れているようだった。  

 ――その静寂を割るように。  

 ガラリ、と扉が横にスライドする重たい音が響いた。  

 少年はわずかに肩を揺らし、ゆっくりと振り返る。  

 そこには、光を背負うようにして立つ影があった。  

 光を背中に受けた影が一歩踏み込むと、少年の表情がぱっと明るくなった。

 

「アキラさん!」

 

 細い声だが、その中に“待ちわびていた”気持ちがはっきりと滲む。
 逢煌は軽く片手を上げて応えながら、静かに歩み寄った。部屋に響く足音は柔らかく、まるで彼がこの空間に馴染みきっている証のようでもあった。

 彼はベッドのすぐ近くまで来ると、用意されていた椅子に腰を下ろす。

 少年――サトシ。
 《青空の門》で暮らしていた子どもの一人だ。
 当初は施設内で治療を受けながら、皆と同じ場所で過ごしていた。だが、怪種由来の毒性が想定以上に深く残り、症状は次第に進行していった。
 より専門的な管理が必要となり、今はこうして、近隣の総合病院に移されている。

 サトシは、眼鏡越しに嬉しそうに逢煌を見上げていた。

 

「サトシ君。昨日、来れなくて悪かったな」

 

 そう言う逢煌の声は、申し訳なさと、ほんの少しの照れが混じったような柔らかさがあった。

 サトシはすぐにかぶりを振る。

 

「ううん! アキラさんが忙しいの、知ってるから。バイトとか色々あるんでしょ?」

 

 逢煌は苦笑し、わずかに肩を竦めた。

 

「まあな。でも……昨日は特別だったろ。君の誕生日だったし」

 

 その一言で、サトシの目がぱちりと瞬く。
 逢煌はゆっくりと紙袋を持ち上げ、中からラッピングの施された薄い四角い包みを取り出した。

 

「遅れたけど……十歳の誕生日、おめでとう」

 

 サトシは両手で受け取り、胸の前で大切そうに抱え込む。

 

「ありがとう……! え、なにこれ……?」

 

 期待と緊張の入り混じった呼吸。
 サトシは慎重に、丁寧に包装紙を破き始める。音が小さく鳴るたびに、彼の表情が少しずつ輝きを増していく。

 そして、包みの中身が姿を現した。

 濃紺の表紙に、長いマントを翻して剣を掲げた少年英雄のイラスト。
 タイトルは太い金字で――

 『ブレイザーワン III ―灯火の継承者―』

 

「これ……! 新刊だ! やっと出たんだ……!」

 

 サトシの声が震える。
 その瞳には、抑えきれないほどの喜びが満ちていた。

 

「前に『続き楽しみなんだ』って言ってただろ」


 逢煌は腕を組みながら、どこか照れくさそうに目をそらす。


「予約してたんだ。昨日、バイトの帰りにようやく取りに行けた」

 

 サトシは表紙を撫でながら、何度も頷く。

 

「ありがとう、アキラさん……! すっごく嬉しい!」

 

 その声には、体の弱さを忘れたような力強さがあった。
 逢煌はその姿を見て、小さく笑う。
 彼が“帰る前に必ず立ち寄る場所”がどこなのか――その理由が、たった今のサトシの顔だけで十分すぎるほど伝わってくる。

 サトシが本を大切そうに抱えるのを見届けると、逢煌は紙袋の中をもう一度のぞき込んだ。

 

「……実は、まだあるんだ」

 

「えっ?」


 サトシがきょとんと目を瞬く。

 逢煌は紙袋から、黒い携帯ゲーム機を取り出した。
 どこか懐かしいフォルム――最新機種にはない、角が少し丸みを帯びた昔ながらのデザイン。画面の縁も太く、ボタンはアナログ感のあるクリック音を立てそうなタイプだ。

 

「これは……?」

 

 サトシはさっきほど大きな声は出さなかった。
 本が“本命”だったからだろう。手のひらに収まるその黒い端末を、珍しそうに眺めている。

 逢煌は微笑み、椅子の背に体重を預けた。

 

「キューギア。ちょっと古い携帯ゲーム機なんだけどさ。俺の叔父さんの店で扱ってて……頼み込んで、きれいなのを一台用意してもらったんだ」

 

 サトシの視線がゆっくり上がる。

 

「古い……ゲーム機?」

 

「うん。でも、侮るなよ。サトシ君が好きそうなタイトル、二十本くらい入れてあるから。冒険もの、パズル、RPG……いろいろ」

 

「に、二十本も……?」

 

 今度は「驚き」が勝って、サトシの口がわずかに開く。

 逢煌は、そこで少し姿勢を前に傾けた。

 

「それだけじゃない。……今日、外でみんなが遊べるように“キューボックス3”っていうゲーム機を置いてきたんだけどさ。
この携帯ゲーム機は、そのキューボックス3と連動できるんだ」

 

 サトシの眉が跳ね上がる。

 

「……えっ?」

 

「つまりさ。離れてても、一緒にゲームができる。ここからでも、あの子たちと同じゲームに参加できるってこと」

 

 サトシは息を呑む。
 その瞬間、彼の表情が少しだけ揺れた。

 

 かつては、窓の向こうではなく、同じ場所で声を交わせた時間があった。
 体調のいい日には、青空の門で、ほんの短い間だけ――それでも確かに、輪の中にいた。

 けれど今は、厚いガラスと距離に隔てられている。

 いつも窓の外を眺めていた、その目――

 “混ざりたい”という気持ちを、誰にも言わずにしまい込んでいたその目が、大きく開いていく。

 逢煌は、その反応を見てから、何も言わずにキューギアを受け取った。
 サトシの手からそっと端末を取り、電源を入れる。

 起動音とともに、画面にシンプルなメニューが浮かび上がった。
 逢煌は迷いなくひとつのゲームを選ぶ。

 起動音とともに、画面にシンプルなメニューが浮かび上がった。
 逢煌は迷いなくひとつのゲームを選ぶ。
 次の瞬間、画面の端に、小さなアイコンがいくつも表示された。
 ユウト。
 ミナ。
 タクミ。
 ――青空の門で、見慣れた名前。
 それぞれの名前の横には、デフォルメされたアバターが並び、今も“接続中”を示す淡い光が点っている。

 

「……ほら」

 短く、それだけ言って、逢煌は音量を少しだけ上げた。

『あっ、誰か入ってきた!』
『サトシ? もしかしてサトシ!?』
 小さなスピーカー越しに、弾んだ子どもたちの声が漏れ出す。
 サトシは、思わず息を止めた。
 画面と、逢煌と、そしてもう一度画面を見る。
 現実だと確かめるように、指先がわずかに震えた。

「……ほんとだ……」

 

 声が、かすれる。
 逢煌はキューギアをサトシの手に戻した。

「な? ちゃんと、つながってる」

 それ以上は言わなかった。
 サトシは胸の奥がじんと温かくなるのを感じ、ゲーム機を抱く手にぎゅっと力を込めた。

 

「……アキラさん……」

 

 声が震えていた。
 言葉より先に、涙が光を含んで滲む。

 

「これで、みんなと……! ほんとに……すごく、すごく嬉しい……! ありがとう……!」

 

 サトシがいつも見ていた窓の外――
 その世界は、もう“ただの遠景”ではなくなる。
 彼が踏み出せなかった場所に、別の形で参加できる道が、そっと開かれたのだった。

 サトシは胸の前で大切そうにゲーム機を抱え、嬉しさを隠しきれない表情のまま逢煌を見上げた。
 だが、その直後だった。

 

「……っ、けほっ、けほ……!」

 

 乾いた小さな咳が、部屋の静けさを乱した。


「サトシ君!?」

 

 逢煌は椅子を引き、思わず立ち上がるほど焦った声を上げる。
 サトシは片手を軽く上げ、慌てて笑おうとする。

 

「……だ、大丈夫。ほんとに、大丈夫だよ……アキラさん」

 

 その言葉を信じたい気持ちと、信じきれない不安が胸でせめぎ合う。
 それでも、サトシの必死な笑みに押され、逢煌はゆっくりと席に戻った。
 だが、心臓の鼓動はしばらく落ち着かなかった。

 サトシがそっと視線を落とす。
 その肩が、ほんの少しだけ震えていた。

 

「……アキラさん」

 

「うん?」

 

「その……ぼくの病気って……治るのかな」

 

 弱々しい声が、まるで色を失った絵の具みたいに沈んでいく。
 さっきまで笑っていた少年の目には、不安が澱のように溜まっていた。

 逢煌はすぐには答えられなかった。
 胸の奥に、どうしようもない悔しさが広がる。
 サトシに“強い言葉”を渡せない自分への苛立ちと、どうにか救いたいという願いが絡みつく。

 それでも――

 逢煌はゆっくりと視線を合わせ、できる限りの優しさで言葉を紡ぐ。

 

「……絶対に、治す方法は見つかるよ。俺だけじゃなくて、先生たちも……この施設のみんなが、サトシ君のためにできることを全部やってる。本気で、君を助けたいと思ってる」

 

 逢煌は一息置き、表情を少しだけ引き締める。

 

「でも……それだけじゃ足りないんだ。サトシ君自身も――病気と闘わないと。薬も検査も、つらいことのほうが多いと思う。でも、気持ちまで負けたら……病気に押しつぶされてしまう。だから……どうか、諦めないでほしい」

 

 それは優しい言葉でありながら、逃げ道のない現実を受け止めた“強さ”が宿っていた。

 サトシはしばらく黙っていたが、小さく――本当に小さく頷いた。

 

「……うん。がんばるよ。ぼくも……ちゃんと、負けないように」

 

 その表情には、さっきまでの笑顔とは違う、芯のある強さがわずかに宿っていた。
 逢煌は胸の奥でそっと息をつく。
 ほんの少しでも、彼を支えられたのなら――それで充分だった。

 サトシは、胸の前で指先をぎゅっと結ぶようにしてから、ぽつりと口を開いた。


「ねえ、アキラさん……もしさ。もし病気が、ちゃんと治ったら……」

 

 そこで一度、言葉を区切って、逢煌を見上げる。
 その瞳には、さっきまでの沈んだ影ではなく、未来を想像する子どもらしい光が戻っていた。

 

「……ダイガマンに会ってみたい。ほんものの、ダイガマン。アキラさんの……お父さんも、でしょ? それに、他にも知り合いがいるって……前に言ってたから……」

 

 言いながら、サトシは自分でも無茶を言っているとわかっているように、目を伏せて照れくさそうに笑った。
 期待と遠慮が入り混じった、子どもらしい“ダメ元”の表情。

 逢煌の胸の奥に、あたたかさと同時に、重く沈むような感覚がひっそりと広がる。
 その願いがどれほど簡単ではないか――彼には痛いほど分かっていた。
 それでも、目の前で未来を語ろうとするこの少年の気持ちを、否定したくはなかった。

 逢煌は迷いを押し隠すように、肩をすくめて笑ってみせた。

 

「いいじゃん、それ! 治ったら海でも遊園地でも、協会でもどこでも連れてってやるし――本物のダイガマンにも、会わせてやる! なめんなよ、俺の人脈。こういう時こそ一肌脱ぐってやつだ!」

 

「ほんと!?」


 サトシの声が、ぱっと明るく跳ねた。

 

「あぁ、ほんとだ! 約束だ!」

 

 逢煌は軽く拳を差し出す。

 サトシも慌てて同じ形を作り、こつん、とふたつの拳が触れ合った。

 それから逢煌とサトシは、時計の針が思っていた以上に進んでいることにも気づかないまま、しばらく話し続けた。
 ダイガマンの話。ヒーロー同士の強さ比べ。協会の内部はどうなっているのかという想像話。
 そして、紙袋から出したばかりの小説の話に、キューギア越しに聞こえてくる青空の門の子どもたちの声。
 短いラウンドのゲームに参加しては、誰かが笑い、誰かが悔しがり、サトシの指先も忙しなく動いていた。
 笑って、驚いて、目を輝かせて――
 サトシは久しぶりに「ただの子ども」としての時間を過ごしていた。
 やがて、廊下の向こうから控えめなノックと、看護師の声が響く。

 

「サトシくん、そろそろ検査の時間ですよ」

 

 その一言で、部屋の空気がほんの少しだけ現実に引き戻される。
 サトシは一瞬だけ名残惜しそうに逢煌を見上げ、それから小さく笑った。

 

「また来るよね?」

 

「あぁ。もちろんだ!」

 

 それだけ言って、逢煌は静かに席を立つ。
 サトシはベッドの上から、いつまでも手を振っていた。

 病室の扉をそっと閉め、廊下に出たその瞬間だった。

 

「……逢煌くん」

 

 病室を出た廊下で、百合子の声がした。

 エプロンも白衣も身につけていない。
 長袖のシャツにパンツという、控えめな私服姿は、この場所ではどこか落ち着かず、それでいて覚悟を帯びて見えた。

 サトシのことを思って来たのだと、説明されなくても分かる。

 百合子は書類の束を胸に抱え、逢煌に気づくと、ほっとしたように微笑んだ。