青森勢の決勝進出は42年ぶりだと云う。

あの時、小学校1年生の私は、甲子園球場が間近に見えるアパート(某大手鉄鋼の社宅=今はもう無い)に住んでいた。

あの頃の甲子園は、まさにその名が示すとおりの球場城下町。
老若男女が野球に熱狂し、小学校に上がるか上がらないかのガキんちょが、そこらじゅうでグラブ片手にボールの投げっこをしたり、体に合わないバットを振り回し、大人がそれを見てにわかコーチになったりする場所であった。

世間に疎かった私は、野球のルールもロクに知らず、甲子園の高校野球が何なのかよく分かっていなかったけれど、とにかくそこら中の皆が、松山と三沢が凄い試合をした、ということを話題にしていて、そのことだけはなんとなく憶えている。といっても、甲子園の決勝ではありがちな話で、そんなに特別なことだとは思っていなかった。

ただ、あとで球場の回りにコマのついた自転車を走らせて、ツタの茂った外壁を眺めながら、自分の印象に刻み付けたことだけは憶えている。

あとになって、あれは凄い話だったんだ、と分かるようになったら、今度はさもそれがエラいことのように思えて、星陵-箕島の18回戦があったときには、まぁ決勝じゃないし、あれに比べれば、などとエエ加減な考えを持ったものである。その頃は何一つ分からなかったくせに。。

あれから42年が経ち、あの頃の友人たちとはすっかり疎遠(音信不通)になった。
43年前に幼稚園の同級生だった友人1名と、41年前に小学校2年生の同級生だった別の友人1名とは、幸運にも連絡が取れて、webでもリアルでも会うことができたが、アポロ11号が月に到着したあの年は、友人に関しては空白である。

私の住んでいた辺りの甲子園の町並みは、少しずつ変わって当時の面影を失いつつある。アパートもその隣の道の先にあった甲子園競輪もなくなってしまった。隣の酒屋と派出所、月見里公園はまだ残っているけれど、私の記憶同様、少しずつ消えていくに違いない。