3月のある日の昼のこと。山梨は少し暖かく、時折強い風の吹く日でした。前期入試より一足早く結果の出る入試で大学に合格した僕は、つい最近までの机に向かう日々の鬱憤を晴らすかのようにパソコンに向かっていました。まあ実際は学校に残って勉強してたので、家ではそんなに机には向かってなかったんですけれど。
前期入試の日に親と見に行ったアパートの大家と母が電話で話していました。2日前と前日に地震があったので、アパートが大丈夫かどうか気になっていたのです。大丈夫と分かり電話を切った約2時間後、14時46分。これまでにないほどの大きな揺れ。いよいよ東海地震かと思いうろたえました。テレビでは大阪も揺れているというアナウンサーの声で大きいなと思いました。1~2メートルぐらい左右に揺れているような強い揺れが2~3分ほど続きました。あまりにも長い揺れは、この地震がただならぬものであることを予想させるのに十分すぎるものでした。
揺れが収まってからNHKに変えたところ、震源が三陸沖だと知って驚きました。これアパート終わったんじゃ・・・と思いました(ヒビとかは入ったものの大丈夫で、今そこに住んでるわけですが)。その後のテレビを通してみる光景はこの世の終わりを見ているような気分でした。夜に父が帰ってきてリビングで地震の情報を見ていた時、速報で入った荒浜で2~300人の遺体がというニュースに家族全員凍りついたことは今でも覚えています。テレビのニュースが誤報で有って欲しいと願ったのは後にも先にもこの時ぐらいじゃなかったでしょうか。この日から2ヶ月近く、5月のGW明けに大学生活が始まるまでは出来ることもこれと言ってなく、新生活の準備も直前まで進まぬまま、さながらニートのような生活を実家でしていました。
あの日から2年。いろいろあったという一言では語り尽くせないですが、この街が変わっていくさまを間近で見てきました。通う大学は建物の取り壊しや新築などの工事が進み、よく行くショッピングセンターの近くの道路は陥没が直され、城址の石垣も修理中。一方でいまだ手付かずの場所、解決の進まぬ問題も。何をもって復興が終わったというのかは分かりませんが、おそらくまだまだ長い月日が必要になるのでしょう。自分の世話もろくにできないですが、微力ながら手伝えることはないかと思いつつ、色々と苦悩しながら過ごす毎日です。
前期入試の日に親と見に行ったアパートの大家と母が電話で話していました。2日前と前日に地震があったので、アパートが大丈夫かどうか気になっていたのです。大丈夫と分かり電話を切った約2時間後、14時46分。これまでにないほどの大きな揺れ。いよいよ東海地震かと思いうろたえました。テレビでは大阪も揺れているというアナウンサーの声で大きいなと思いました。1~2メートルぐらい左右に揺れているような強い揺れが2~3分ほど続きました。あまりにも長い揺れは、この地震がただならぬものであることを予想させるのに十分すぎるものでした。
揺れが収まってからNHKに変えたところ、震源が三陸沖だと知って驚きました。これアパート終わったんじゃ・・・と思いました(ヒビとかは入ったものの大丈夫で、今そこに住んでるわけですが)。その後のテレビを通してみる光景はこの世の終わりを見ているような気分でした。夜に父が帰ってきてリビングで地震の情報を見ていた時、速報で入った荒浜で2~300人の遺体がというニュースに家族全員凍りついたことは今でも覚えています。テレビのニュースが誤報で有って欲しいと願ったのは後にも先にもこの時ぐらいじゃなかったでしょうか。この日から2ヶ月近く、5月のGW明けに大学生活が始まるまでは出来ることもこれと言ってなく、新生活の準備も直前まで進まぬまま、さながらニートのような生活を実家でしていました。
あの日から2年。いろいろあったという一言では語り尽くせないですが、この街が変わっていくさまを間近で見てきました。通う大学は建物の取り壊しや新築などの工事が進み、よく行くショッピングセンターの近くの道路は陥没が直され、城址の石垣も修理中。一方でいまだ手付かずの場所、解決の進まぬ問題も。何をもって復興が終わったというのかは分かりませんが、おそらくまだまだ長い月日が必要になるのでしょう。自分の世話もろくにできないですが、微力ながら手伝えることはないかと思いつつ、色々と苦悩しながら過ごす毎日です。