動かれては困る心ある普通の人たちが、ほんの僅か希望を抱き出したのは、2016年のある時。少しでもそうであろうとすれば、即座に押し潰されて大変なことになるのは分かっていたけど、なぜか、彼らは、その時を経験する(迎える)。

共通の嘘を本当とする多数(社会)は、そのことに連動するようにして、LED化を加速させる。従来の照明は次々とLEDへと換えられ、その普通の人たちが動けるということはないよう、生命力の無い時空は幾重にも重なり合う。農作物や教育の環境までが、本来の光を遠ざける。

 

無意識の隅っこに火をともした生命たちは、その感覚自体に驚きながらも、そこに、甦ろうとする意思の姿を見る。彼らをずっと押さえ込んでいた心ある原因無き存在たちにとって、それは有るまじき現実。世は、不自然・不健全を地で行くものへと、様変わりして行く。

スーパーでは、冷凍ものやレトルト食品が増え、電子レンジ用の食材の消費を促す。お肉料理の店は乱立し、どこの通りでも、野蛮と粗悪が支援されつつ、それを数(経済)の力で良しとする。子供たちは、仮想世界に入り浸り、自然な会話を忘れ、人としての交流を失くす。そのどれもが、本来の息吹きへの重石として、妙な力を発揮する。

 

耐えているわけではない、どちらでもないところからの受容。違和感を覚えても、どこにも向かわず、ただ望むべく原因で居る。限り無く身体を活かそうとする生命たちは、何が有っても、無くても、それまでとは違う時の流れを感得する。気づけば、何気に抱いていた感覚的理解が、心身を、これまでに無く元気にする。

道をせばめられても、そこにまだ道が有れば、それで良い。選択の自由を尽く奪われてしまうのであれば、何も選択しないという自由を手にする。自分たちが普通とする生の原因とその性質には、何を以てしても、何も出来ない。その具現化への想い(意思)は、形ある世界を透過しながら、未来へと放たれ続ける。

 

押さえ込まれる側に居るからこそよく分かるのは、押さえ込もうと(支配しようと)する側の中の、その怖れと怯え、そして余りの未熟さと下卑級の演技。でなきゃ、そんな立場で居続けようとすることは出来ない。人間は、自らの分を知れば、支配する、されるという概念なんて、分からない(縁が無い)。

あの時から8年の時の、現在。Trulyと共に居る生命たちは、いつも元気で、健康で、平和を普通とする。変な人と思われても、それが自分なのだから、それで良いし、嫌われて、隔てられても、その人の自由だから、それで良い。そして、皆で思う。そろそろだね…と。

 

健康的に食べられるものが減り、行ける場所(入れる店)も少なくなってしまったけど、反面、そんな食事情を良しとし、人間であれば行けないはずの場所に普通に行ける人が実に多いということを、そのことは教えてくれる。多数が経験する、問題事と病気、個人の欲。動かれては困る少数が経験する、平和と健康、みんなにとっての喜び。さて、2025年、2026年は、どんな…?

…という、これからへのテーマだけど、実のところ、もうすでに、それは反応・反動の域となる。心ある原因無き存在たちの、その結果という名の、変化とは無縁の重たい原因は、行くところが無い。暇さえ有れば、カフェでも電車の中でも電子画面を見続けようとする彼らには、この10数年間の時空(環境)の変化とその意味が全く分からない。何も分からず、何も無くなり、何かでは居られなくなる。そして、時代は、約束通り、かつての未来と次々と出会う。