人間の感情が、どんな風にして生まれ、どんな影響を及ぼすか…。そして、その感情は、どんな連鎖を生み出し、そこに何を残すか…。出所は、いつの時も、無自覚に大事にする個の思惑や未消化の記憶であることを思えば、感情を刺激する曲を通しての感動や共感が、どれ程の負の原因かが分かる。

 

欲深さを小出ししつつ、自分のためだけに生きる人は、そこに有る風潮や常識を上手く利用し、みんながそうであるという形ばかりの(変化の無い)現実の中で、自らの危うさを難無く正当化する。

感情を刺激する曲は、そんな人たちに向けて発信される。そこでの感情は、欲の具現の材料となり、行動する力へとそれは変わる。身勝手な希望を心ある理想にすり替え、その分かりやすい心で、分かりにくい(分かりたくない)心の無さを見えなくさせる。歌(曲)という世界は、実に恐ろしい力である。

 

感動することが変化だと思っている人たちによって、心に響く歌は、存在感を手にする。感情が動く分それまでの原因は一層動かなくなる、というのは、次々と新しい感動を欲するそこでのその姿勢そのものが現している。感情を刺激する、感動させてくれる曲に人が惹かれるのは、そうであれば、原因の変化(自らの性質)を無視でき、何も変えなくてもいいから。心に響く歌のその心って、実は心ではない。

 

感情を刺激しない曲は、感情を透過するようにして、その人の本質に働きかけ、つくり物の理解と認識の力を段階的に削ぐ。偶然という名の必然にその気もなく形となったそれは、数は少ないが、この時代に存在する。そして、その曲を通る、生命本来の意思(望み)とも言える原因に反応する人は、少ない。

大多数が本能的に背を向ける、感情を刺激しない曲。曲になったその本当の原因は、育まれ、力を付け、この時代に仕事をする。それと共に居て、歌であって歌ではない次元を遊ぶ。

 

感情を刺激しない歌には、言い訳が通用しない。言い訳は、手にしたものや立場で、心の性質(原因の影響力)をごまかすために使われる。それ無しでは生きられない人間に有ってはならないのは、その言い訳の元となる感情が、勝手に浮き上がってしまうこと。そこでは、感情を刺激しない曲が最も嫌われる。

思い通りにならない関係性や、病気、争い事なども、その原因に無責任で居ようとして、言い訳は、出番を手にする。そこで活躍するのは、感情を刺激する歌。それは、言い訳を支え、感動の時をつくり出す。

 

困った人が居なくなるって、感動だと思う。みんなが健康で平和で居るって、心の躍動だと思う。そこに刺激する(される)感情が無いって、安心そのものだと思う。そのためにも、感情を刺激する(不運や不幸を材料としたり、感動や一体感を演出したりする)曲から遠くに居る。

 

世には、感情を刺激しない曲を普通に聴き続けられる人と、そうではない人の、2通り居る。音楽は、後者のものとして有り、どれだけ聴いても、変わるべきものは何も変わらないから、そこに、それは存在し続ける。前者にとって(の音楽)は、特に音楽でなくてもいい、真の変化の原因を備えるから、音楽を通してのその機会を楽しみ、安心する。

かつては無かった音楽がここに有るが、かつては無かった質の良い平和と調和が、ここに有るわけではない。その理由に、一人間としての責任を感じる自分が居れば、何を、どんな風に歌っているか(演奏しているか)ではなく、どんな性質の存在が、それを歌い、演奏しているかを大事にする。感情が妙に動けば(刺激されれば)、それは、互いの性質が外された、嘘の時間である。

 

以前何度も聴いた曲が久し振りに流れると、その頃の自分の状態や人の関係性、匂いや風景までが、一緒になってここに来る。それが伝えるのは、曲(歌)を通して、人の変化は完全に止められたままになるということ。感情が動いた分、それはしつこく、繰り返し聴き続けたことによるその影響は、思考の域を遥か超える。

唯一それに対処し得る、感情を刺激しない曲は、このTrulyと深くで融合する。その曲の原因は、ここでの文章にも乗る。どんな自分が、音楽の有るこの時代に居るか…。その性質

を、Trulyと重ねる。