好きです が言えなくて。

好きです が言えなくて。

あんまり器用に世の中渡れてない、見た目キラキラしてないけど、年齢は待っちゃくれなくてあたふたしてる人の決意表明です。

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自分を愛さなくては、人を十分に愛せない。
よく言われる言葉。

自尊感情の極めて低い子どもは、極めて低い大人になり、自分が何を望むかよくわからないまま、周囲が求めていることを推測しながら選んでいく。これ以上非難されまいと努めていても、やはりと思うほどネガティブな評価を受ける。というか、そういう声しかきこえないから。いいね!と言われると恐怖を感じて離れていかざるを得ない。理解不能だから。想定の範囲内に戻りたくなってしまう。

産んだ子は、選んだ伴侶は、自分の思った通りには動かない。当たり前だけどそれがしんどくなる。予想通りに届く罵声が絶え間ない。自己評価はこれ以上下がりようがないと思っていたのに、まだ下がる。他の人はみんな幸せそうだ。なぜだろう。自分のせいに違いない。自分が消えればいい。世のため人のため、何より自分のため。生き続けている限り苦しみは雪だるま状態に肥大化する。恵まれている部分があっても、それは感じられない。


もはや体調が悪いかどうかもわからない。倒れても自分が一番驚いた。自分が何を好きで、何をしたいかがわからない。聞かれても答えられないし、そもそも尋ねる人も居ない。嫌なものに直面すると、とりあえず立ちすくむ。でも、目をつむって飛び込むことが多い。身体の痛いところに気付いても、それが何になるのか。いたわれるわけでもない、声をあげたら怒られるだけだろう。これ以上面倒を起こしてはいけないのだ。

人形は昔から好きだった。こちらが見たいだけ眺めても「何見てんだよ!」とは言わない。向こうが見ていてもそこに意図はない。人の顔は長いこと見たいようには見られていない。自分が見られるのは、ろくでもないときだ。好きな人形を飾ったら、邪魔だ馬鹿馬鹿しいと言われる。仕舞い込んでいたら要らないだろ、と言われる。買いたいと言ったら、金の無駄だと言われる。店に何度も見に行ったら、気味悪がられるだろう。そもそもそんな時間があるのか?

その人形は、そもそも寝顔だった。隣にはどこを見るともない目を開いた友達が寝かされていた。手のひらに載る、ベビー人形。丁寧な作られ方をしている。これを作った人は、作ることが楽しかったに違いない。自分でもよく作っていたから、それはわかる。安くはない値段。どうして見つけたんだろう。呼ばれたんだろうな。その人が作った立ち姿の人形は、その前から好きだった。値段はさらに高い。飾ればまたいいことは言われないだろう。立てない子なら、仕舞っておける。そんなに大きくはない。

どちらの子を迎えよう。何度見に行っても、決められなかった。あまりにも度重なる来店に、店主はショーケースから出して、持たせてくれた。いい重さだ。いい固さ。持つ人に、抱き心地を味わって!と要求する。それは、人の子どもも同じではないか。じぶんとの時間を作って!その時感じたことを忘れないで、と。

店主もかなり気に入っていた。本当に良さのわかる人に選んでもらいたい。私が良さのわかる人かどうかはわからないが、手元に置きたい気持ちを、強く持った。ことを自覚した。自分の気持ちがわかった。避ける方ではなくて、求める方。ベビーたちは毎日隣に居て、互いを失う日が来ることを予想しただろうか。私は、二人を一緒にお迎えした。

求めたいことを伝えると、「そう決めたのですか。」と店主はつぶやいた。一人は残して欲しかったのだろうか。また相手の意図を気にしてしまう。「この先も、二人は一緒にいられますね。」と続けた。包んでいたおくるみは付属品ではなかったようだが、つけて持たせてくださった。もしかしたら、この客はもう見に来ないのか、と少し思ったのかもしれない。

その後、私は自分がこうしたい、こういう状態は嫌だ、と少しずつ口にするようになった。馬鹿らしくて相手にできないと言われても、自分が思ったことを消さずに信じるようになった。こんな人とは一緒にやっていかれないと言われても、離れて自分のやりたいように過ごすことを選ぶようになった。相手に理解して欲しいとは思わないけれど、あの時に人形を諦めて「私はあれが好きではなかった。」と自分を説き伏せるのはやめようと思ったのだ。それができないほど、好きだからなんだけど。

今も、ベビーたちは手元で眠っている。私に直接何かを言おうとはしていないだろう。いや、はっきり言われたのだ。「好きなものは好き、でいいんじゃないの?」なのか、「みんな、自分の声をもっとよくきいているよ。」なのか。面倒はもしかしたら、数々起きるようになったのかもしれない。でも、それを何とかすることもできる。防ごうとして防げなかったあの頃だったら、見舞われた面倒に一撃にされていただろう。もうそんな余力はなかったのだから。恐れて選択が制限されることも減ったと思う。直感で選び、起きていくことを直感で捉える。そんな方法でも、同じ世の中を歩いていかれることに気がついた。だから今の方が、恐れず世の中に出ていける。

この道を進んでいったら、果てはどこに着くのか。私は人と別れて、自分と出会った。この先、どんな人と出会うことがあっても、自分とは別れなくていいのではないか。昔会った人にもう一度出会っても、同じ私ではないのだ。今も、不安がないわけではない。それでも、過去の自分のそばにもし居られたら、「これからもたくさんの涙を流しながら、どうにかこうにかやれていくよ。」と手を暖めたい。だから、未来の私も「ぶざまにズッコケながら、何とかやり抜いたんじゃない?」と冷やかしに来て欲しい。