「治人……、お前の携帯は……壊れたんじゃなかったか……?」
と呟いた僕に、携帯に耳を当てたままの治人が目を丸くして僕を見る。
たまたま携帯の調子が良かっただけかも知れない。だが、あの話を聞いた直後のこのタイミングでは、何か勘繰らざるをえなかった。
まっすぐに僕を見たまま、何も話せなくなった治人に
「貸してくれ。ちょっとお母さんと話するわ」
これがベストの選択だと思った。それが本当に母親ならばよし。
母親の声をした別のモノであったなら意思疎通できるチャンスだ。
僕は僕で営業用の声色に変えて
「あ、すいません。お電話代わりました。お世話になっています。ちょうど良かったので、軽く電話面談でもと思って……」
と自身を名乗り、用事がある風に装った。
「治人、最近しっかり頑張ってますよ。今のところ、いい意味で言うことはないんですが……」
と、口火を切った僕に
「そうですか?ありがとうございます。でも、最近あの子、なんか変で……。塾でもご迷惑お掛けしてないかと……」
と返って来た。
「変?具体的にどんな所が気になってますか?」
「最近ね、部屋に閉じこもってばっかりで、呼んでも返事もしないことが多くて……。そちらに入ってからまだそれほど時間も経っていないので、そちらでも何か失礼なことしているんじゃないかと……」
(ん?何だ……?何を言っている)
「いや……いや……。そんな……ことはない……ですよ……」
会話がおかしい。僕は会話をしながら、頭は全く違う事を考えていた。
そして、思いついた質問が
「そう言えばお母さん。彼が塾に入って来てから……、そうですね。今でもうどのくらい経ちましたっけ……?」
この起死回生の質問に
「えーっと、治人がそちらに通わせてもらってから……、だいたい一か月半ぐらいですよね」
(なるほど……。そう言うことか……)
この答えで僕には全てがわかった。やたらと彼を呼ぶ声。呼び声だけで何もしてこない理由。
「そうでしたかね……。でも彼は頑張っていますよ。ことさらお母さんに迷惑をかけるようなことはしていませんし、もちろん僕にも……。最初はね、確かに人見知りもしたし、ちょっとやんちゃな所も目立ちましたけど……ね」
「やっぱり!ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「いやいや。それは過去の彼でして……。今はね……、あの頃とは違って、もう学年でもいつも二十位以内の成績ですし、勉強だけじゃなくて、性格的にも皆に好かれて……、僕も彼を大好きですし、きっと彼も僕を大好きでいてくれてるはずです」
信じられないと言った風な相槌を打つ彼女に
「今はね……。彼はもう高校三年生でね。大学受験を考えてよく相談されています。きっと彼の行きたい大学に合格するでしょう。あの頃とは……、彼がここに来た約四年前とはもう違う。誰にでも自信をもって紹介できるような、そんな立派な子に育ちました。だから……心配しないで……。全く問題ないですから……。どうかもう心配なさらないで……、あなたはもうお帰りなさい……」
僕の言葉を聞いた彼女は、涙ながらに何度も感謝の言葉を並べ……、そして電話は切れた。
ふぅ、と一息つく僕に
「今の何やったんですか?」
と、治人が尋ねて来る。
「ああ……、あれはな……。たぶん……ドッペルゲンガーの亜種……」
強い、強すぎる思いがあるとその思念が一人歩きし、そのときの記憶を保ったまま、どこかに留まることがある。
そう、治人がこの塾に入った頃は、その成績も態度も含め、一般的にいい生徒とは言えなかった。
最初の入塾説明のときの母親の相談も、半分諦めていたような話ぶりで、こちらに迷惑を掛けないか、と心配していたことを思い出す。
「お前がお母さんに心配ばっかり掛けてたから、あんな念が残ってしまっていたんだ。そして、今もずっと心配し続けてる……もう一人のお母さんがお前の家にいた。お前のせいなんだが……、まぁ、あの頃は中学生だったしな……。あれはもう一つの世界のお母さんかもな……。お前があの頃のままだった世界の……。まぁ そんだけお前は過去に心配かけてたってことや。思い当たることがあるやろ?」
と笑いかけると
「ああ……、なんか、すいません」
と、僕に謝ってきた。
「俺じゃない。お母さんに謝るべきなんやろな。だが、これで……もう大丈夫……やと思う。ってか、もう呼ばれても怖くないだろう?」
(ああ……、怖いものじゃないさ。むしろお前を守ってるような……)
「はい!母さんに心配掛けへんように、もっと頑張ります!」
(はは、さすが!自慢の生徒だ)
「ああ。頑張れよ!」
と見送った彼の背中が扉に消えた。
(いいタイミングだった……。やっぱり……これのおかげなのかな……)
と知らぬ間に握りしめていた六地蔵の御守りを見る。
(念でも、幽霊でも、悪霊でも、化け猫でもいいから……またアスラに会いたいものだ……)
と、窓越しに空を見上げると
(あの雲……、なんかアスラに似てるな……)
涙が出る前に、僕は次の授業の支度を始めた。
了
僕の愛する猫たちとの話。『ネコガミ』も宜しくお願いします!!