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文の書斎

〝ふみ〟と読みます。
女です。

小説、詩など、上手く書きたかった中学生も、もう大学院生になりました。
更新頻度は蝸牛並みですが、細々と続けています。

日常、趣味、好きな事中心。
心情を綴る/考えたことをまとめて置いておく場所。

 

 
能力は人の内部にある「モノ」ではない。外部との関係性の中でつどつど発生する「コト」つまりは現象だ。
 

「何者かになる」とは、ここまでの言葉で言えば「普遍の世界において承認を得ること」にほかならない。

最速・最年少●●。実績。資格。職歴。肩書き。スペック。フォロワー数。「能力」。

 

能力など普遍(誰でもわかる)の世界でアイデンティティを確立していると、それが失われたとき、自分という存在の根幹まで揺らいでしまう。

 

固有、つまり「特定の人しかわからない」世界では、あなたはあなただけの価値体系を生きる。

優劣という考え方自体が普遍の世界特有であり、固有の世界には存在しない。

 

他の誰かにはどうでもよく、ただあなたのみにしか価値を見出されないものたち。それは、その固有性ゆえに、誰にも奪うことができない。何があっても、失われない。

あなたの人生を最期まで彩ってくれるのは、固有の世界に存在するものだけ。

普遍の世界での承認に、逃げてはいけない。

 

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論文や賞の数、すなわち、業績は誰でもわかる価値である。

つまり、業界の中という限られた範囲とは言え、「普遍の世界において承認を得ること」そのものと言える。

 

最近、所属研究科から賞をもらえることが決まった。

推薦してもらった時点で、それは指導教員をはじめ専攻の教員が自分を認めてくれているという事実であるので嬉しかったし、推薦したもん勝ちのような賞でもあってまあ通るかなと思っていたので、実際連絡がきて安心した。

しかし、受賞という事実を以てして自分の「能力」に自信がつくわけでもない。

それは、履歴書にあればわかりやすくその人が"凄かった"証にはなるけれど、その人が"今もこれからも凄い"証明にはならないから。

 

「それまでの頑張りを認めてもらった」ことは素直に受け取るべきで、そこに胡座をかいてはいけない姿勢は正しいけれど、自信は持っていいはずだと言う。

けれどその「わかりやすい価値」と「能力」に不安になるということは、自分が「業界からの承認を得る」ことを目的にしていることを意味しているのかと、上の記事を読んで腑に落ちかけている。

 

せっかくやるならちょっと有名になりたいわね、みたいな野心はあった。

じゃあ、「有名になる」とは何か?

それは多分、たくさん論文を書いて、専門性があって、本なんかも書いて、「業界に知られている人」、「その話ならその人に聞けばいいよね、みたいに思ってもらえる人」になるということで。

そしてここで、これもやはり、「業界に認めてもらう」ことを目的にしているのと同値なのかと気づく。

 

自分が現在もっぱら対象にしている分野 (事象) は、割と狭いコミュニティだと思う。

だから、そのコミュニティの中で話す限りは自分より"わかって"いる人ばかりで、自分がそれを"専門"と言えるのかわからなかった。

もちろん、少し分野の違う同期と話すと自分の知っていることを知らないことは多々あるし、逆も然りで、「ある物をある種の人より知っている」という事実はあるのだけれど。

そういう中で、自分が何をしたくて、どうなりたくて、何を目指しているのかがわからないからいつまでたっても不安なのかと思っていた。

 

実際、"就活"を目の前にして、自分が何をしていきたいのかを考えなくてはならないことも、将来がどうなるかわからないことも事実なのだけど。

けれどその不安の先にあるのは、「有名 (="凄い人") になるには何をし続ける必要があるのか」というある種のしがらみがあるのではないか。

 

今属するコミュニティで、指導教員を含め、周りにいる大人たちは「有名人」だ。

業績も職もあって、活動的で、物事をよく理解していて、分野を超えて業界内で知られている。

だから、自分もそうならなければいけないと、そうしないと生き残れないと。

そうならないで生き残れはしても、それは恥ずかしいと。

さらに、そうして生き残れたとしても、途中で認めてくれた人たちをどこかで失望させてしまうかもしれないことへの、皮算用な恐怖があって。

 

結果的に「有名」になるのはもちろん素晴らしい。

しかし、それを目的にする、つまりアイデンティティにしていると、いつまでたっても周囲からの評価や業績という「普遍さ」にしがみつくことになるのか。

 

自信は、人と比べて起こるものではなく、自分の中から出てくるものだという。

つまり、「普遍の世界」からではなく、「固有の世界」から来ると。
 

自分がやってきたこと、経験してきたことや見てきたものは、自分にとって「固有のもの」である。

論文や発表も、形や数としては「普遍のもの」でも、それまでの過程や実際の経験は、自分にとっては「固有のもの」である。

自分ができて当たり前と思っていることも、実は結構、誰にでもできることではなかったり、誰しもが経験することではなかったりして。

自信を持つには過去を振り返って自分が積み上げてきたものを再確認するのも大切だと思う、とある知り合いが言ってくれたが、自分がただいたずらに日々を過ごしてきたわけではなさそうだということを、時々思い返す必要がありそうだ。

 

自分より他の人の方がその事柄を"わかって"いるから、自分がそれを"専門"と言っていいのか。

それも他者依存で、周囲に認められて初めて「専門」を名乗れるのだという気持ちだった。

しかし「専門」の言葉の意味は、ある限られた事柄にもっぱら従事すること・関心を向けている事柄で、そこに他者は関係ない。

もちろん、「専門」であるからにはそれを「専門としない」人より詳しい必要はあるだろう。

けど、自分がそれにもっぱら従事してきたという事実は、それは自分の経験に基づく「固有のこと」で、自分の「専門」と言っていいのだと、今は納得している。

 

 

ここまで書いて、一方で自分が今身を置く業界は「普遍の世界」から切り離せないことに気づく。

職を得るためには、他者と比較して自分自身がいかに優れているかを示す必要があり、業績がその指標になる。

もちろん、「固有の世界」を軸にしつつ、他の人よりちょっと優れていたい、という負けん気は持っていて良いだろうが。

それ以上に他者と比較されることを避けられない世界にいるのだなと、改めて認識する。

 

だからこそ、その比較の中で自信を失う必要は無いのだろうと思う。

自分に「固有のもの」である経験や感情を以て、図太く生きられれば。

少なくとも努力はして、そのためには「普遍のもの」の中でちょっと優れた人にはなって、戦略を練らなければいけないけれど。

もしそれでこの業界に職を得られなかったとしても、それは私自身に価値がないことを全く意味しないし、大切な人たちはいなくならないし、死ぬわけじゃない。

 

 

自分は、"人間としてちゃんとしてる"自信はある。

自分は1人の人間として社会的に生きられる、そういう自信。

それは生活習慣や社会的なモラル、思いやりあるやり取り、スケジュール管理といったところで、人との関わりの中で経験を積んで、ある意味大きな失敗なく生きてきたという事実から来ていると思う。

つまり、自分自身の経験や感情という「固有のもの」から来ているのであって、上の話と矛盾しない。

 

プレゼンや文章書きに対して、他の人より上手い (得意な) のかもと思える自信は、どんなプレゼン/文章が良いかがわかっていることから来ていると思う。

聴衆/読み手を理解してそれを組み立てることの重要さを"わかって"いる、そしてそれに他者からの客観的なプジティブ評価をもらえる、そういう自信。

これも、これまでの教育や経験に基づいてる。

回数をこなす中で、人から教えてもらったこと、自分で気づいたこと。

つまり自分の中の「固有のもの」から来ているのであって、やはり上の話と矛盾しない。

 

仕事に対する自信が何故無かったのかというと、数日前は、自分の中の指標が無いからだと思った。

自分の中で何を"良し"として自信に変えられるのか。自信を持つための信念/軸が何なのか。

その時思いついたあり得る「軸」は、総じて"人から凄いと思ってもらえるかどうか"が基準にあったような気がする。

つまり、自分自身がどういう人を凄いと思うのか、羨ましいと思うのか。

それは、相手に対しては自分が感じること (固有のもの) だけれど、他者からの"評価"はそうではない。

 

きっと、自分自身がどういうことを考えてきたか、何をしてきたかを"理解"して、「これだけやってきたんだからこれからも頑張れるだろう」ということが自信に繋がるのかと。

知らないことは知らないと言って、でも自分が知っていることには誇りを持って。

今はそんな風に思う。